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 先生は大きなマスクをかけて戻ってきた。内郷駅周辺に捨てられている煙草の吸い殻を拾っているらしい。それを尋ねると、「むにゅむにゅ」と聞き取れない言葉を発して、煙に巻いた。
 奥さんが入院していてひとり暮らしをしている。「始末になんねぇ。困ってる」とぼやき、居間のこたつのスイッチを入れた。かけっぱなしのテレビ。先生が座る特等席の周りには、高校の数学の教科書や微分積分の参考書が置いてあった。

 戦争中は中島飛行機で働いた。ある日、B29の性能などが記された機密文書を見て驚愕する。「この飛行機が大量生産されたら大変だ。とても勝てない」。なのに「アメリカに攻められたら箱根の山で防ぐ」と言っているお粗末な軍の幹部がいる。そんな狂った世の中を心のなかで笑い飛ばした。

 その数学脳はつねに論理的で理詰め、しかもシンプルで冷静だ。
 磐城高校では学力向上に心血を注いだ。「おんなじ高校生なのになんでこうも違うのがなぁ、こんな話あんめぇと思ってね」。結論は、高校に入ってきたとき、すでに勉強の下地が違うこと。それを埋めるのは補習しかない、と生徒と向き合った。そして、せいぜい一人がやっとだった東大合格者を東北トップの16人にまで引き上げた。
 「でもね。本人が望むところに決まって喜んでいる姿を見てると、それでいいのかなぁ、とも思いますね。それぞれの道でちゃんと努力すればね。だって、全員が東大に入れるわけじゃないんだから」
 「数学の神さま?」と水を向けたら手を顔の前に出して2度3度と振り、照れながら否定した。そして別れ際に「これからは厳しくなりますね。厳しくなりますよ」と世の末を暗示するように繰り返した。

 山口研次先生、90歳。いま、何を思うのか。心の底から素直に「せんせい」と呼べる、数少ない1人ではある。


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