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第120号
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丹野清志さんインタビュー
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ひとこと 大石芳野さん
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草野天平と梅乃の出会い
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往復葉書 編集室⇔読者
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風の通る家
昨年の暮れ、東京新宿のフォトギャラリーで小野田の写真を展示したが、若い連中が驚いていたのは「19歳のときに撮った写真」だということ。そして、時代が変わると見る目や感想も変わるものだな、と思った。
勤めを辞めたあとは主に農村をぶらぶら歩いていた。写真はついでだと思って撮っていたから、その姿勢は小野田炭礦住宅の人々と過ごした時間によって築かれたのかもしれない。
1970年から1980年にかけては写真ジャーナリズムの世界が元気だった。ところがグラフ雑誌がどんどん廃刊に追い込まれて、なくなってしまった。と同時に写真の芸術化が始まった。写真ではなくてアート。結果、記録性、メッセージ性が薄くなり、かつての報道写真のように、他のカメラマンを制し、より近づいてバンと撮った写真が「ダサイ」と言われるようになった。
カメラマンの行動範囲が狭くなり、「なぜそこを撮ったんですか?」と尋ねると「何となく」という言葉が返ってくる。しかもほとんどの写真は人がまったくいないか、点景でしか捉えないうえに、後ろ姿だったりする。
それは個人情報保護法とも関係している。編集サイドが「個人情報の保護」という面に過剰反応をしすぎて、雑踏や群衆などをむやみに掲載しなくなった。掲載しなければならないときには、パソコンを使って人の顔をぼかす作業をしたりしている。
特に問題になっていないのに自主規制を必要以上にして、知る権利や自らの表現の幅を狭めている。編集者に「首をかけてやる」という気概がある人も少ないから、足下を見られてトラブルに巻き込まれたりもする。
若者に受けている雑誌は軽く旅をして受けの良い写真を載せ、広告をバンと取る。本家本元のジャーナリズムの社会でもそうした傾向にある。自分は思ったことを言う性分なので、若者たちには「これでいいと思う?」と、気づいたときには言うようにしているのだが、頷いてはいるものの納得しているわけではなく、反発するそぶりも見せない。空回りして疲れることも多い。
デジタルカメラは大学の写真学科をなくし、新聞社のカメラマンに効率主義を要求するようになった。かつては、目的の写真を撮りに外に出る、ついでに町の情景などを撮っていた。それがネガとして保存されて、時代を記録することにつながった。しかもあとで見ると、使わなかったコマの方が面白い、というケースが結構あった。
でもいまは、カメラマンがいらないと思うデータを消し、デスクが消し、と消去が進み、むだなコマが残りにくくなっている。仕事の余裕もないから、目的の写真しか撮れない悪循環になる。
いまのままでは、木村伊兵衛が町角に出て撮ったみずみずしく、自然なスナップショットなど撮れなくなってしまうかもしれない。
撮影:丹野清志さん(『1963 炭鉱住宅 メモリアルグラフィカno.1』より)
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