割烹「谷口楼」の女将としては4代目です。いまでは女将を娘に譲って、上に「大」を付け大女将になりました。こういう商売は女で持つんです。女将には女将の哲学がありますからね。
芸者さんが出入りしていたころは、女将は呼ばれたとき以外は玄関でお出迎えし、あとは見送りしかしませんでした。女将が部屋に出入りすると芸者さんが緊張して部屋が和まなくなるからです。いまは芸者さんがいないので部屋まで行きますがね。この商売も時代時代に波があるんです。老舗だからこそ、つねに新しいものを先取りしないとだめなんです。そうしたなかで心がけてきたのは「心に紋付きをつける」ということでした。
祖母や母にはいろいろなことを教わりました。それが谷口の伝統になって来たのだと思います。例えば「むだなお酒を飲ませずに、ほどよい量で奥さまにお返しすること」。そして「運転手さんを大事にすること」。「一方に偏らずに万遍なく」「店でのことは決して外に漏らしてはならない」というのもそうです。そうした積み重ねが信頼になっていくのだと思います。
「谷口」はさまざまな人たちが利用しました。炭鉱関係でも技術系、事務系と分かれていたものですが、関係なし。漁業関係者、建設業、官庁、銀行、商店街と、ありとあらゆる人たちです。
長く商売をしていればいろいろなことがあります。料亭・料理屋と芸者置屋が対立して起こったストライキも、その1つです。
料亭側の言い分は、芸妓組合主導で玉代がたびたび上げられるので経営が大変になったということです。お客さまが来て芸者を呼び、2次会、3次会へ行く。お土産に寿司折、菓子折をつける。それを10日ごとに料亭が立て替えるんです。で、実際にお客さまからお金が入ってくるのはひと月に1回。先代女将の母などは大変だったと思いますよ。でも、芸者置屋の立場が強くて何も言えない。そこで料亭側が「それは違うんじゃないの」ということになったんです。
ある日、いつまでたってもお座敷に芸者さんが来ない。芸者置屋さんがストライキという強硬手段に出ました。いま大貞の新館になっている近くに芸妓組合の事務所があって、芸者さんがそこに集まったんです。我慢比べになったのですが、料理屋側の結束が崩れ、芸者置屋さんの言い分を聞く店が3軒出ました。どちら側も苦しくてじりじりしてたんで、そりゃぁもう残念でしたね。
芸者さんを呼べなくなった料亭・料理屋側は、お座敷で相手してくれる女性を募集して急場をしのぎました。社交クラブホステスの始まりです。
農家や理髪店の人が応募し、実際にお座敷にも出ました。お客さんもそれを面白がったりしました。芸事などできないからお酌だけ。しかも、さまざまなしきたりを知らないので現場教育です。お客さんが「どうしても」というときには、芸者さんもお客さんの1人としてお膳を用意しました。
芸事ができないんで客によっては物足りないと思う人もいましてね。「女将、三味線を弾け」と言われて三味線を弾いたこともあります。芸事を習ってたんで弾けたんですが、心のなかで泣きながら弾きました。意地を噛んだんです。
昭和34年には「2次会用に」とバー「ムーン・レイ」を開きました。祖母が亡くなって1年。祖母が使っていた部屋を改装したんです。「商売のために使うんなら祖母も喜んでくれるだろう」って思いましてね。60席、音楽はジャズ。店の雰囲気はあえて和風にしました。何回も東京へ足を運び、バーテンを5人雇い入れました。昼は喫茶店です。銀行の人たちがたくさん来ましてね。そのころのバーと言ったら、田園とみどりと峠ぐらい。夜1時までやっていたんで芸者衆が飲みに来ました。芸者さんがいる店と評判になって流行りました。このころからバー、スナックが少しずつ増えていったんです。
いま思うと、昔のお客さまは鷹揚でしたね。平成になって女性のお客さまが増えました。女性は見るところをキチッと見られるので、こちらもシャキッとします。いまの時代、老舗だなんて言ってられないですね。タクシー運転手さんで谷口をわからない人もいるし、「やぐち」でなくて「たにぐち」と呼ぶ人もいますから。
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