こも樽から、なみなみと注がれた酒入りグラスを次々と渡す。壇上に集合をかけた昭和53年時の勿来工主将・星善宏さんが口火を切った。
「県内無敵、甲子園確実、と言われていたのに監督を甲子園に連れて行くことができなかった。そのあと、双葉で甲子園に行ったが、勿来工の相原で行かせたかった。悔しいし残念。ここにA級戦犯ががん首そろえて懺悔の一気飲みをします」
その瞬間、全員のグラスは見事に空になった。
教え子たちが次々に壇に上がってはエピソードを披露した。「あの時は辛くて。いじめられてる、って思ったけど、いまだから監督の気持ちがわかる。喜んで来ました」。みんな晴れやかにグラウンドでの思い出を語っている。37年にわたって県内五つの高校で教鞭を執り、野球部の監督として甲子園をめざした相原登司輔さん。その退職祝賀会は心がこもっていて、温かい会になった。
最初の赴任地・小野では恵まれない環境のなか、高校野球の原点を知った。続く勿来工では甲子園への壁を思い知らされ、内郷では好きな野球ができない苦しみを体験する。そして双葉では甲子園でプレーする幸せを与えられ、好間、勿来工では生徒との絆、野球ができる喜びを教えられた。その姿勢は真摯で少しの妥協も許さなかった。「心の上に技術が宿る。適当なことをやっていたら野球の神さまがそっぽを向いて、ご褒美をくれない」。そう言いながらの指導は厳しく、半端ではなかった。
壇上で好間時代の教え子が告白した。相原さんを慕って川内からやって来た選手だった。期待の証だろう。入学時、相原さんはポケットマネーでファーストミットを買い、「貸すから使え」と、その子に手渡した。ある日、部室の片隅にそのミットが泥まみれになって置かれていた。すぐ選手を呼び、その前でミットを包丁で切り刻んだ。
相原さんの思いや行動はいつもシンプルでストレートだ。その根っこにあるのは、野球が本当に好きなのか。いまやっていることは間違っていないか。それがあるだけ。そして指導を通して、いつも問いかける。「お前野球好きか。そうか。それなら一緒に頑張ろう。そして甲子園へ行こう。余計なことは考えるな。おれを信じてついてこい。できるか」。野球が好きか確かめ、夢を語り続ける。それができなければ高校野球の指導者ではない、とも言う。
思えば楽しく苦しい37年間だった。勝つためには甘いことばかり言っていられない。決してハードルを下げようとしないから、周囲とぶつかり、野球を取り上げられてしまったことが何回かあった。しかし野球が好きな選手との絆と信頼は切っても切り離せないほど強かった。祝賀会での教え子たちの言葉こそが、相原さんの財産となった。
祝賀会の記念品。そこには相原さんの言葉が刻まれていた。
「好きな事のためにする努力は好きな事ができない苦しみよりはるかにちっぽけである」。
高校野球の神髄、ともいえる相原野球商店は少しの間、休業となる。 |