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 「こころが大切なの」。それが舞踊家・香取希代子さんの口癖だった。スペイン舞踊とひとくくりにされていたフラメンコを日本に普及させた第一人者で、日本フラメンコ協会名誉会長であり、映画「フラガール」で炭砿の娘たちに踊りを教えた平山まどか先生のモデルの1人だった。
 「なぜ踊るのか、ということがわからないと、本当の踊りはできないはず。ただ動くのでなく、心の内に持っているものが出てきて初めて、人を惹きつけ、人様に何かを与えることができるのではないかと思う」。自らの著書『85歳、しなやかにフラメンコ』(パセオ刊)でそう語っている。

 いわき市で生まれ、育った。父は入山採炭の建築技師で、のちに常磐ハワイアンセンターの社長になった中村豊さんが入社した時は、すでに管理職だった。そのころ磐城高等女学校の生徒だった香取さんは中村さんを「おじさま」と呼び、かわいがられた。
 幼いころから踊りが大好きで、女学校時代は周りから「体操とダンスが得意」と認められていた。卒業目前のある日、母の婦人雑誌をめくっていて、留学を終えて帰国したモダンダンスのパイオニア・高田せい子さんの記事を読み、踊りに魅せられた。
 進学を理由に東京へ出て、初めは和洋専門学校に通いながら、卒業すると文化服装学院で学びながら、家族には秘密にして舞踊研究所に通 った。しかし学院の卒業間近、両親に踊りのことがばれて、いわきに連れ戻された。
 それでも踊りを諦めなかった。月謝を全部つぎこんで見に行ったアルヘンティーナのスペイン舞踊が目に焼きついていた。風呂敷包みを一つ抱えて家出し、松竹少女楽劇部(のちのSKD)に入り、バレエ、ジャズ、モダン、タップ、日本舞踊、世界の民族舞踊などを踊った。だが、思いはスペイン舞踊にあった。
 26歳でダンサーの横山公一さんと結婚。ちょうど日中戦争が始まった年で、2年後には第二次世界大戦が起こり、終戦まで夫婦で戦地を慰問して回った。終戦後は米軍キャンプを慰問し、知り合った将校が4冊組の本『ダンス・オブ・スペイン』を取り寄せてくれた。本場のフラメンコの舞台が、日本で初めて行われる10年も前だった。
 終戦から2年後、東京都中野区野方に横山・香取舞踊スタジオを開設。昭和37年にはスペイン政府の招聘で留学し、教えてくれるという人がいれば名もない人にも貪欲にフラメンコを学び、習った踊りはノートにリズムの線で区切りを入れ、体の動きを略図で書き込んだ。7年後、さらに半年留学した時にはフラメンコギターも学んだ。
 初めてのスペイン留学からの帰国後、中村さんから常磐ハワイアンセンターでダンスを踊る娘たちの教育を相談された。「やるなら学校をつくってほしい。基礎からちゃんと教えたい」と助言し、常磐音楽舞踊学院がつくられた。そこで香取さんは、ほとんどが踊りの経験のない娘たちにフラメンコを教えた。
 その娘たちのなかに、常磐炭砿が昭和20年代後半、「地域の子どもたちの情操教育のために」と香取さんを先生に招いて開いた、バレエ教室に通 っていた小野恵美子さんもいた。髪が茶色く、背筋がピンと伸び、洗練された身のこなし、それに素敵な踊り。香取さんは少女の恵美子さんのあこがれだった。
 フラメンコは魂とリズムの踊り。踊り手の思いを個性的に表現し、情熱を内に秘めながら一瞬、パッとひらめかす。踊りに気持ちを込め、芸術の域にまでする。それには踊り手の精神性も高めなければならない。香取さんは踊りだけでなく女性としての振る舞いも含め、自身の姿で娘たちに示した。
 著書を出版した翌年の1997年、香取さんは脳梗塞で倒れた。リハビリを頑張り、一時は快方に向かったが、ここのところは寝たきりの生活を送っていた。
 亡くなる3週間ほど前、恵美子さんが香取さんを主人公にした記念公演のDVDを野方の自宅に持参した時には、顔色もよく「先生、また」と再会を約束した。目が見えなくなっていたため、DVDは音声を聞いて頷いていたという。数日前から咳が出始め、急性肺炎であっと言う間に帰らぬ 人となった。
 「まだまだ社会に貢献したいこと、やりたいことがあったのに残念だったと思います」。脳梗塞で倒れてからずっと介護してきた娘の啓子さんは、香取さんの思いを語る。



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