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手元に1冊の本がある。『日本の年中行事・磐城編』。岩崎さんがまとめた。いわき市内の各地区で行われているさまざまな行事が丁寧に拾い集められている。得難い本だと思った。かつて磐城高等女学校(現在の磐城桜が丘高校)に勤務していたころ、生徒に家で行われている年中行事をレポートとして提出させたというから、そうしたデータもかなり入っているのだろう。その本を眺めるたびに「岩崎敏夫」という見ず知らずの人物の姿が浮かんでは消えた。
岩崎さんは相馬生まれ。先祖は修験(山伏)で代々相馬家の祈願院だった。家の中にそういう空気が漂っていたのだろう。岩崎さんも「わが家は国学の家系」であることを強く意識し、旧制相馬中から國學院大学高等師範部へと進んだ。中村第一尋常高等小学校・相馬中の同級生に厚生大臣を務めた斎藤邦吉元代議士(故人)がおり、大学では折口信夫、金田一京助に学んで、神職の資格と国語、漢文の教員免許を取った。
民俗学との出会いは昭和10年。柳田国男の還暦を祝って計画された日本民俗学講習会への参加。これをきっかけに終生柳田に師事し、講習会後、高木誠一、山口弥一郎、和田文夫さんらと磐城民俗研究会を旗揚げした。まだ民俗学そのものが確立されていない時代で、すべてが手探りだった。柳田や折口の著書を読んだり写したりしながら、こまめに東京・成城の柳田の自宅を訪ね、わからないことを質問した。あまりに熱心すぎたため、「君たちはあまりに先生に頼りすぎる。先生は老齢になられていつどんなことがあるかもわからない。柳田全集などは早く読んでしまってそこから出発しなくてはならない」と折口に意見されたエピソードが残っている。
柳田は言った。「民俗学は地方にいてこそ本当の調査ができる」「小さな問題をないがしろにしてはいけない。小さく見えても大きな問題につながっていることが多いものだ」「民俗学は世のため人のためになる学問でありたい。住みよい世の中にするための学問でありたい」―そうした言葉の一つひとつが岩崎さんの人生の道標になった。
岩崎さんが立てた人生目標というのがある。@博士号をとるA大学の教壇に立つB本をたくさん出す―。そのうちの一つが実現するときが来た。昭和37年、「本邦小祠の研究」で國學院大学から文学博士の学位
を授与されたのだ。しかも、その翌年、その論文が第2回柳田国男賞を受けることになる。当時は高校の教頭で、在野の人間の研究が評価され、賞を受けたということを何よりも喜んだ。その後、研究や活動が認められて東北学院大で民俗学、博物館学を教え、著作も四十冊弱を数える。岩崎さんの人生目標は12分に達成されたのだった。
岩崎さんの教師生活は、磐城高女に11年、旧制相馬中(途中から相馬高)、相馬女子高にそれぞれ12年ずつ。さらに東北学院大に招かれた。助教授、教授として23年。相馬女子高で教頭になったが、その後は「校長になってくれ」という誘いを固辞し続け、終生民俗学と向き合う人生といえた。
平成3年、岩崎さんは脳梗塞で入院した。この時はある程度回復し、不自由な体で原稿書きなどをしていたが、今年の6月29日に脳梗塞が再発してまたも入院。梗塞が脳幹部付近で起こったために、水や食べ物を呑み込むことができず、亡くなるまでの4ヵ月間、点滴で過ごした。しかし、体が徐々に弱り、10月28日午後9時7分、帰らぬ
人となった。眠るような最期で、95歳だった。
岩崎さんと同じく東北学院大で教鞭を執り、現在はみちのく民俗文化研究所の代表を務めている長男の真幸さんは「民間信仰が生涯のテーマで、『足で集めた資料から言えることだけ言いなさい』というのが教え。素朴で泥臭いやり方だった。結局は相馬学だったと思います」と話す。
また、妻のさと子さんは、磐城高女時代の教え子。卒業して七年くらい過ぎたあと、福島でばったり会い、交際を経て結婚した。「前の奥さんが病弱で、亡くなって何年か過ぎていた。15歳も年が違っていたけど、先生時代から声を荒げることなどしない優しい人だった。全国いろんなところに旅行したのがいい思い出」と述懐する。
晩年は、家にいるときはほとんど和服で通し、書を愛した。「真似すると本来の自分がなくなってしまう」と自己流で通したが、他人のものでは、「作ったところがなく、真面目に書いてあるようで抜けているところが自然で貴い」と、俗気のない良寛の書を好んだ。庭が見える岩崎さんの書斎。机の上には小さな良寛座像が置かれている。
亡くなったとき書きかけの手書き原稿があり、その題名は「柳田国男あれこれ」だった。
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