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 バレエが好きだった。「バレエを習わせてほしい」。そう母に話したが「あんなお嬢さまみたいなことはできない」と、あっさり言われた。中学3年生の時だった。だから舞踊学院でのバレエのレッスンは楽しかった。
 炭砿で生まれ、炭砿で育った。ある日、近くに住んでいたおじさんがドレス姿の女性とおへそを出した女性のパンフレットを持って訪ねてきた。「こういうのがあるんだけど」。中学を卒業したら何か身につけたいと考えていた。「わっ、きれい」と思ったが、母は反対した。それでもティーナ早川さんのドレス姿に賛成してくれた。

 1期生は18人。そのうち一番年下のわたしたち15歳は6人いた。寮生活をしながら、歴史、英会話、舞踊史などを勉強して、あとはクラシックバレエ、ハワイアン、タヒチアン、フラメンコのレッスン。「きょうはどういうことを教えてもらえるのか」と思って、わくわくした。とにかく夢中で、周りがみえなかった。
 早川先生(ティーナ早川さん)は友達のような先生だった。香取先生(香取希代子さん)は雲の上のような人。先生たちは私たちの前で決して踊らなかった。ある時、レッスン室のドアのすき間から、先生が1人踊っているをのぞき見したけれど、それはすてきだった。

 ハワイアンセンターオープンの日をよく覚えている。すごい人だった。緊張はしなかったが、あまりに大勢で、人が蟻のようにステージから見えた。「すごい人だね」。そんな話をほかのダンサーとした。ショーの途中で着替え室に行くのに、人だかりで前がふさがれてしまい大変だった。
 たぶん、オープンして2、3年だったと思う。ステージで踊っていて、双子のダンサーの1人のみののホックが外れてしまった。すかさず彼女は何事もなかったようにさっとステージを下がり、パニックにならずに済んだ。もうそのころになると、そんな風に対応できた。それからは必ず、ホックを点検してステージに出た。
 ショーのリハーサルのある時、中村豊社長が必ず見に来てくれた。「お前たちは栄養をつけなければならない」と、東京からわざわざ牛肉を取り寄せ、金曜日のお昼はいつもすき焼きだった。東京の本社を訪ねた時にはステーキを振る舞ってくれ、「お前たちはこれから、いろんな人と接する。フォークとナイフは使えるようにならないと」と話した。

 21歳までステージに立ち、結婚を機にダンサーはやめて、専業主婦になった。それから30年を経て、OB教室で再びフラダンスを始め、2年ほど前から教室も開いている。フラダンスは人間の体をうまく利用した踊り。足を曲げて、足踏みをすると、自然に腰は振れる。
 フラダンスは私でない私を見いだしてくれた。フラってやっぱり楽しい。私に向いているものだった。映画「フラガール」のラストの初舞台のシーンをハワイアンズで撮影した時、エキストラで参加した。ステージで必死に踊る姿を見て涙が出てきた。私たちも必死だった。よく「笑顔、笑顔」と言われた。「笑顔じゃないと、給料へらすぞ」と。




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