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「絵を描くことと演じることとの違いと違わないところについての話」というタイトルでつれづれに描きだす。これはこの夏に行われるプロジェクトのコンセプトのたたき台にもなる。
絵を描くように演じられることができるのだろうか? 演じるように絵を描くことができるのだろうか? 絵を描いている時によく思うことは、勝手に身体が反応しているところである。あまり技術的なことは考えていない。だから考えているのは目先のテクニック的なことでなくって、もっと全体的な先のところを俯瞰している。
演技するということもきっとそういうことなんだろう。細かい動作のことを気にしているのではなく、そんなことは勝手に身体が反応していて、もっと深層心理の奥深いところのことをイメージしているのが演技というものなのであろう。演技者を見ている自分がそこにいる場合、その演技者が自分であるということ。
絵は面白い。特殊な能力ではない。手先からものが生まれてくるという行為は人は皆、興味を注ぐ。どんなものが生まれてこようが、生まれた! 生み出した! という事実には変わりはない。そのものだけが面
白いのではなく、その行為が面白いと言える。
その行為は身体表現である。その行為は演技的には意図的ではないが、本人はある目的を持って行っている、ということでいえば演技ともいえるのだろうか?
絵を描く行為は作為的ではある。しかしそれを読み取る観客によってそれが作為的でなく見えてくる場合がある。だから絵は作者は1人ではあるが、つまり絵の作為は1つであるが、観客にとっては様々な捉え方をされるものであり、それは雑多である。
絵の中で自分を演じる作為が観客に伝わった時にそれは作為的な物には見えてこなくなる。演じるという行為が伝わった時にそれは演技ではなくなってくるということ。
自分の知らない自分を他者が見つけ出してくれる。それを自分で確かめることは、自分で見ることはできない。しかしいつも自分が作為的な演技、行為としての描画をしていなくては他者にそこは伝わらない。
他者が自己を投射してくれているというのが表現であるということ即ち観客に見る力があるからこそ自己の表現があるということ。演技者を見ている自分がそこにいる場合、その演技者が自分であるということ。
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