| 鎌田 吉一 |
「日々の新聞」。いわきの地域紙なら「いわき○×」とネーミングされるのが普通
なのに、「日々の新聞」である。
いわきの、いわきに訪れた、いわきに縁のある人々の生活や意見をベースに、この新聞は何か普遍的な「日々」のことを捉えようとしているように思える。だから来訪した著名人のインタビュー記事も面
白いが、クマガイソウを山いっぱいに残そうとしている独り暮らしの老人や、駅周辺の煙草の吸い殻を拾って歩く九十歳の元数学教師の記事などからは、円錐形に世界の構造が開示されるような物語を感じる。物語の深さは私たちの「日々」を照射し、呼吸を深くする。グローバリズムとやらで世界が次第に酸欠になってきている「日々」に、このことは貴重なことだ。
本当はそれは「いわき」でなくても「現在」でなくてもよいのだろう。ただ、「いま、ここ」が連続するしかない日々の暮らしが、くっきり、立つことが出来れば。
政治も経済も科学も、また宗教や様々な思想、世界イメージも、起き伏し、食べ、働き、会話し、自分を持て余す日々の暮らしの中にしかない。それは構造的に宇宙よりも広い場所だ。
いわきに恐竜の時代があり、縄文の時代があり、安藤の時代があり、草野心平・天平がいて、吉野混沌、せいがいて、一山一家の炭鉱や甲子園準優勝の時代があり、ハワイアンセンターが名前を変え、アクアマリンが出来て、ラトブができて、アリオスが出来た。
そんないわきの「日々の新聞」。「磐亭よもやま話」や、謎の書き手「宙」さんの連載がいい。箱崎りえさんのイラストもいい。写
真やレイアウトもいい。折り畳んで見るとき丁度、段組が分かれる。
世界の構造も宇宙の構造も、きのうの夢も明日の不安も、言葉が勝手に言葉しているだけかも知れない。それでも、オレは時代の落ち穂拾いだ、と地べたを這いずる影が心強い。
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(庭園管理植吉)
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特集の原稿などを書いていると、頭の中がそれだけになってしまうことがあります。今回は寺山修司でした。学生時代から寺山のエッセイなどが好きで本が出るたびに買っていたのですが、亡くなってからの寺山関連の本の出版も衰えることを知りません。その突出した美意識や感性が寺山ファンの心を捉えて放さないのでしょう。
寺山の言葉に「たとえ世界の終わりが明日だとしても種をまくことができるか?」というのがあります。なんともらしくない常識的な言葉なのですが、それは自分に対する問いかけなのかもしれません。
「日々の手帖」が5号を迎えました。いかがでしょうか。今回は月遅れ盆の関係で一月分の情報を載せました。8月15日付の「日々の手帖」は休みになりますが、31日付号は通
常通り、2週間分の情報を載せる予定です。感想などお待ちしています。どしどしお寄せください。
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