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 毎年3月はどうしたって、東日本大震災と福島原発事故のことを考えずにいられない。
 いや正直に言えば、津波と原発事故で被災し避難移住した僕は、あの日以来九年間、一日たりとも震災のことを思わなかった日はない。2011年3月11日から3285日、ご飯を食べたり洗濯したりと同じように、日に何度も震災に想いをはせるのは日常だった。いつの間にか震災と原発事故は自分自身を構築している大切な柱の一つになり、作家活動も、それなしにはリアリティーを感じられなくなってしまっていた。

 我が家には震災の時に行方不明になったユイという名の犬がいた。息子が10歳、娘が5歳の時に我が家の末っ子として迎え、田人の山暮らし、久之浜の海暮らし、家族旅行や山歩きやサーフィンも一緒に楽しんだ。
 2011年3月11日、あの日僕らは海岸から15mの自宅にユイだけを残し、車で鹿島町まで出かけていた。僕らが住んでいた久之浜町は津波と火災で壊滅し、翌日には30km北の福島第一原発が爆発した。あの日が、僕らの前からユイが消えた日。ユイが12歳の時だ。ユイはあの時、何を体験したのだろう。大きな地震と音におびえて自分のハウスに籠(こも)っていたところを津波が押し寄せ、家ごと滅茶苦茶になりながら流され、溺れたか体を引き裂かれて息を引き取ったのだろうか・・・。

 震災後僕らは、縁もゆかりもない奈良県に避難移住し、生活と作家活動の再建のために9年間、ひたすら前を見て死に物狂いで走ってきた。いつしかユイのことも過去のことになりかけていた。
 この3月、東京のギャラリーで個展の予定が入った。3.11を挟む会期なので展覧会タイトルを「Dedicated to 3.11」(3.11に捧げる)とした。震災後、自分の個展でそこまでど真ん中のタイトルを付けたことはなかったが、なぜか今回は自然とそんな気持ちになった。「3.11に捧げる」と言っても、震災に対してゆるぎないメッセージや答えを提示しようと気張っているわけではない。ただ震災から9年間の僕の中の3.11に対して、僕が僕自身に捧げたかった。そう思ったらユイも作ろうと思った。
 クスの丸太を半割にし、チェーンソーと大斧で荒取りを始めた。その瞬間僕は、不思議な世界に誘われていった。僕の心の中の風景は9年前の久之浜のあの瓦礫の平原になり、その瓦礫の中に埋もれたユイを感じていた。
 荒取りは、ユイの上に覆いかぶさる瓦礫を懸命にどけている気分だった。木を彫ることは、瓦礫の中からユイを掘り出す作業に変わっていた。大きな瓦礫を取り除き、斧を小型のものに持ち替えて小さな瓦礫や泥や砂を取り除いていく。それはユイの体に沿って斧を当て、ユイのフォルムを引き出す行為そのものでもあった。
 僕はその時、思った、ユイは走る夢を見ながら目を閉じて逝ったのかもしれないなって。次第に次第にユイの体が瓦礫や砂の中から姿を現してきた。掌で木くずを撫でながら取り除くと、本当にユイの体をさすっているような感覚になった。僕はつい言葉に出して言ってしまった、「ユイ、ここにいたのか、9年間ずっとたった一人だったな、ごめんな、やっと会いにきたよ、もう大丈夫だよ、もう大丈夫」。
 斧を振り、木を刻み始めて34年。こんな経験は初めてだった。それは形を作るのでも説明するのでもない、僕が知っているユイの体温や匂いや体の柔らかさ、硬さ、息づかいが僕の手を動かし、いつの間にか瓦礫の中からユイを抱え出す時間だった。
 震災から9年、僕はあの日の久之浜町に戻り、あの焦げ臭くスエたような臭いの滅茶苦茶な瓦礫の中からやっと、我が家の末っ子を見つけ抱き上げることができた。
 生前ユイは毎日朝晩、僕と海岸堤防をプチジョギングしていた。今日は久々にユイと一緒に走る写 真を撮ったよ。(彫刻家)


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