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 節と茂吉が初めて会ったのは明治39年(1906)、伊藤左千夫の家で開かれた足立清和凱旋歌会の席だった。節が27歳、茂吉は23歳。東京帝国大学医科大学の学生で、歌人として踏み出したばかりの茂吉は節を尊敬し、多くの影響を受けた。手紙でも歌だけでなく、自身を取り巻く現状への葛藤を包み隠さず書いたという。
 その年の6月下旬、節は療養を兼ねて3週間ほど、茨城県の平潟に滞在した。この間、石城郡(現在のいわき市)の閼伽井(あかい)嶽に登り、関田(現在の勿来)海岸を散策した。ちょうど10年前の明治29年(1896)にも、節は石城郡を訪れ、小名浜や関田の勿来関跡で歌を詠んでいる。脳神経衰弱で茨城県尋常中学校を退学した年の秋だった。

 ものゝふの過ぎしいそ回(わ)のあだなみを
 なこその関と人はいふなり

 平潟に滞在した時は、閼伽井嶽で1泊し、関田の浜で遊んだという。この時に作った歌は、帰宅後の歌も合わせて「青草集」と名づけ「馬酔木」10月号に発表している。

 赤井嶽とざせる雲の深谷に
 相呼ぶらしき山どりのこゑ

 汐干潟磯のいくりに釣る人は
 波打ちくれば足揚げて避けつゝ

 概念よりも目の前にある現実をありのままに歌にした節。一方、茂吉は子規が提唱した写 生の考え方を発展させ、目の前にあるものに自ら入り込み、対象とひとつになってそこにないものを詠み込んだ。
 大正4年(1915)、節が亡くなって半年後の8月、茂吉は前年に結婚したばかりの妻の輝子とともに、節のゆかりの地を巡る旅をした。勿来関にも訪れ、関下の茶店で出された梅干しを口にふくみ坂を上った。

 みちのくの勿来へ入らむ山がひに
 梅干ふゝむあれとあがつま

 茂吉は茨城県磯原と大津に泊まり、この時に詠んだ歌を第2二歌集『あらたま』に収めた。
 国道6号線の勿来関公園入口の三叉路には、節が詠んだ勿来関と勿来海岸の歌碑が建ち、勿来関公園内の詩歌の小径には茂吉の歌碑がある。また、閼伽井嶽薬師常福寺境内の駐車場脇にも節が閼伽井嶽を詠んだ歌碑がひっそりあって、節と茂吉が100年以上前にその地を訪れたことを伝えている。
 節の1周忌の歌会は青山脳病院の茂吉の自宅で開かれた。北原白秋なども参加した。茂吉は『長塚節歌集』や『長塚節全集』の編集もしている。


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