121回 二十歳の無言館(2017.8.15)

大越 章子

 

画・松本 令子

もっともっと描きたかった画学生たちの思い

二十歳の無言館

 長野県上田市の郊外の小さな山のてっぺんに「無言館」が建っている。太平洋戦争で亡くなった画学生たちの作品や遺品を集めた小さな私設美術館で、空から見ると十字架の形をしている。1997年に開館し、今年5月に20周年を迎えた。
 館主は作家で美術評論家の窪島誠一郎さん。無言館の20年前に、大正時代や戦争中に病気や栄養失調などで亡くなった夭折画家のデッサンを展示した「信濃デッサン館」を造り、訪ねて来た画家の野見山暁治と戦争の話をしたのが、無言館建設のきっかけになった。
 野見山さんは1942年に東京美術学校を卒業してすぐに戦地に赴き、満州で病気になって日本に帰ってきた。療養中に戦場で亡くなった多くの友人たちのことがずっと頭を離れず「彼らの絵を集めた美術館のようなものをつくりたい」と、窪島さんに言ったという。 
 すでに終戦から50年近くが過ぎていた。窪島さんは「いまならまだ間に合う」との思いから、東京美術学校の卒業者名簿などを頼りに、初めは野見山さんとふたりで、その後はひとりで、全国の戦没画学生の遺族を一軒ずつ訪ね、趣旨を説明して絵を預かり、必要があれば修復もした。
 そんななかで、窪島さんは「無言館」の名前が浮かんだ。戦没画学生に限らず絵を見る時は、絵がわたしたちに無言であるだけでなく、わたしたちも絵に向かって無言であるという意味。美術館のレンガの壁に寄付者の名前を刻む「レンガ募金」を呼びかけ、建設費の一部に充てた。

 開館して数年の秋に、無言館を友人と訪ねた。軽井沢でレンタカーを借りて、追分や小諸に立ち寄り、地図を見ながら向かった。あのころはまだカーナビが搭載されている車が少なく、案内板もあまり表示されていなくて、何度か道を聞いた。
 500mほど手前の信濃デッサン館をひとまわりして、ティールームでひと休みしたあと、急な坂道を上って行った。その先に打放しコンクリートの教会のような建物があった。ひとりが通 れるほどの狭い入口、そこには受付などがなく木の扉を開けると、そこはもうひんやり薄暗い展示室になっていて、壁に絵が展示され、通 路に写真や手紙などの遺品が展示されていた。
 だれもが無言。ゆっくり絵を見て、そばに記された作者の簡単な説明を読み、遺品を眺めた。4つ下の妹の浴衣姿、息子の戦死を信じないまま亡くなった母の顔、空想して描いた家族の幸せな食卓風景、初めて妻をモデルにした裸婦ノそれら絵の裏側にある作者の短い人生と思い、家族のせつない気持ちをも絵は語っていた。
 なかには、あと5分、あと10分、この絵を描き続けていたい。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くからノと恋人に言い残して戦地に向かった人もいる。その男性だけでなく、展示されている絵の作者それぞれの「もっともっと描きたかった」との思いが伝わってきた。

 この20年の間に収集作品はずいぶん増え、2009年には第2展示室「傷ついた画布のドーム」が造られた。その前には「絵筆の椅子」が建っている。現役の画家と画学生が使っていた絵筆を背に飾った碑で、裏には次のような言葉が彫られている。 

  画家は愛するものしか描けない
  相手と戦い 相手を憎んでいたら
  画家は絵を描けない

  一枚の絵を守ることは
  「愛」と「平和」を守るということ

 それぞれ1人1人が「画家」と「絵」の言葉を、自分に置き換えてみるといい。

 

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