454号

 鷹巣山の痩玉のこと454号 

 『大須賀筠軒』という本がある。赭(そほ)という品のいい赤土色の布張りの四六判で、1987年、久之浜・舟門(ふなど)の大須賀家屋敷があったそばの波立寺(はりゅうじ)に筠軒の詩碑が建てられた際、記念して作られた。うしろに当時、いわき地域学會代表だった里見庫男さん(故人)のあとがきがあり、次のように始まっている。

 6月2日、鷹ノ巣にある痩玉の墓を訪ねた。
 入江に臨んだ丘の上にあって、黒御影の墓碑がぽつんと、片隅に追いやられている。みつめていると、筠軒とひとつ墓所にいたいという痩玉の悲痛な叫びが、松籟と共に伝わってくる。ひと山越すと、そこが舟門。

 痩玉(そうぎょく)とは大須賀家の一人娘で、筠軒の最初の妻の茂登(もと)(通称)の雅号。これを読んで、お墓参り行きたくなった。場所がわからないため波立寺に向かい、筠軒の詩碑を眺めたあと、庫裡で聞いた。「トンネルを2つ抜けて右手の高台です」と教えてもらった。
 そこは田之網地区の共同墓地で、入口に痩玉の没後130年を記念して、久之浜・大久地域づくり協議会が2010年に建てた「痩玉夫人之碑」があった。33年の短い生涯と、容姿端麗で温厚貞淑な人となりが端的な文章で刻まれ、後世に伝えている。
 痩玉が亡くなったのは1878年。大須賀家代々の墓は民宿すみやの北隣にあったが、「鷹巣山に埋葬して」との遺言通り、痩玉の墓は自宅前の鷹巣山に建てられた。少しでも筠軒の近くにいたかったのかもしれない。
 筠軒との間に子どもはなく、歳月を経るなかで痩玉は忘れられてしまったようで、ある時、やぶのなかから墓石が見つかった。地域の人たちは土とともに別な場所に移し、その墓石を建て、痩玉夫人之碑も造った。お墓からは海がよく見える。

(章)

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