築地達郎

築地達郎さんのはなし

日々の新聞は新聞か
 日本の新聞社に最も欠けているのは「編集」である。
 「え?どこの新聞社にも編集局があるじゃない?」。確かにそうだ。
 だが、新聞社に「編集局」という組織はあっても、作り手の心を受け止め、読み手の心に働きかけるエディターシップは、実はほとんどない。
 多くの新聞社が自慢するのは、“大本営発表”のような情報を細大漏らさず取り寄せ、迅速に加工・発信するという、いわば「情報処理」の機能に過ぎない。
 創刊当初、「『日々の新聞』は新聞なのか」という戸惑いを多くの読者が感じたことと思う。それは、『日々の新聞』の創業メンバーが「新聞社を情報処理業としない」ことに強くこだわったからだった。
 なにしろ、新聞の基本機能と考えられてきた「ニュース報道」「客観報道」を、『日々の新聞』はあっさり切り捨てた。社会を「政治」とか「事件」とかに乱暴にカテゴライズすることもしない。
 現場に立ったジャーナリストが感覚器をフル稼働させて取り込んだトータルな世界観を伝えようとした。生み出されるのは、記事内容(活字情報)だけでなく、レイアウトや用紙の選定、写真の質、そして広告デザインをも含め込んだトータルな「アンサンブル」となった。スタッフの高いエディターシップがそれを可能にしてきた。
 そして今。『日々の新聞』は新聞か、という疑問にとらわれ続ける購読者はもはや少数だと推察する。
 新聞は元来、世界観を無理やり腑分けするためのものではなかったのだ。むしろ、人間が世界観を共有したり混ぜ合わせたりするための結節点であればそれでいいということに、私も含めて多くの人々が気付かされたのではないか。
 そんな新聞を支え育て続けるいわきの土地柄に思いを馳せつつ、今日もポストに届いた『日々の新聞』を開く。
(龍谷大学社会学部教員=情報社会学)