420号

 久之浜第一小学校の校歌は昭和28年(1953)、創立80周年記念に、当時のPTA会長の坂本秀寿さんが、双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)出身の歌手で、同窓生でもある霧島昇(本名・坂本栄吾)に依頼して制作された。

 霧島は小学校を卒業後、しばらくして親せきを頼って上京し、安田財閥の安田善治郎が創立した東京保善商業学校に通い、卒業が近づくなかで歌手を目指し、東洋音楽学校(現在の東京音楽学校)に入学した。しかし学費が続かず2年ほどで中退し、浅草の芝居小屋「帝京座」の幕間で歌うアルバイトをした。
 昭和11年(1936)にコロンビアの専属歌手となり、13年に松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」(作詞・西條八十、作曲・万城目正)をミス・コロンビア(松原操)とデュエットして、大ヒットさせた。
 代表作の哀愁を帯びた「誰か故郷を想わざる」(作詞・西條八十、作曲・古賀政男)は戦時下の軍部に嫌われたが、「若鷲の歌」(作詞・西條八十、作曲・古関裕而)など戦時歌謡も歌った。霧島自身も横須賀海兵団に召集され、楽団とともに部隊を回って慰安の演奏会をしている。
 校歌の作詞は西條八十、作曲が古関裕而。その年の8月2日、霧島は妻のミス・コロンビアと、「リンゴの唄」の並木路子とともに久之浜一小を訪れ、コロンビア楽団の演奏で校歌発表会を開いた。児童だけでなく地域の人も招き、希望者には入場券を渡して、発表会は3回開かれ、霧島は校歌やヒット曲を歌った。
 
 古関をモデルにしたNHKの朝ドラ「エール」の放送が始まったのをきっかけに、校長の水沼栄寿さんは書類の間に挟まった、西條八十の自筆の校歌の詩と、古関の自筆の楽譜をそれぞれ別な書類入れから見つけた。校長室には額に入った詩と楽譜のコピーが飾られていて、どこかに原本があるのではないかと思っていたという。それぞれ「永久保存」と書かれた茶封筒に入れられていた。
 詩は3枚の原稿用紙に3番まで書かれ、漢字にはすべてルビがつけられている。楽譜には「明るく、元気よく」と記され、下に小さな古関のサインが刻印されている。面白いのが西條の原稿用紙の3枚目で、3番の歌詞の「日本(にっぽん)」のところに「『にほん』と発音したほうが歌い易い。(古関)」と手書きされている。
 福島市の古関裕而記念館に問い合わせたところ、記念館にも手書きの譜面が保管されていて、久之浜一小にあるのは学校贈呈用の原本に間違いないという。