紙面を読んで From Ombudsman | 413号 |
藁谷 和子
新妻 和之
大越章子さんが、レオ=レオニの『スイミー』のことを「ストリート・オルガン」395号で取り上げ、「自分らしくあることの大切さや違うことを認め合う素敵さを伝えようとした」と、その生涯を紹介しています。
大学で神宮輝夫先生の英米児童文学を受講したことで、貧乏学生でしたが、『スイミー』と『フレデリック』は購入して読みました。谷川俊太郎訳の「うなぎ」のくだりや、フレデリックと仲間たちの目の表情など、秀逸なユーモアに心が和んだのを覚えています。
卒業し、その後の長い教員生活で、学級活動や部活動、校内合唱コンクールなど、幸いなことに、「心を一つにして」事を成そうと取り組む姿に接する度に、子どもたちの精神の気高さに感動をいただいたものでした。
そして、年老いた今、『スイミー』に思うことは、これは「出エジプト記」のモーセと同胞たちの姿ではないのか、ということです。
そうした『聖書』の匂いは、『フレデリック』でも感じていました。迫り来る冬の寒さと飢えに備えて、昼も夜もせっせと食料や藁を蓄えている仲間たちがいる一方で、傍目には怠惰としか映らないフレデリックの姿。
やがて冬ごもりとなり、最初は快適であった暮らしが欠乏状態から無気力となっていったとき、フレデリックが仲間たちに対して、心に蓄えてきたあの「ことば」でもって、萎んだ心を温め、満たしてあげるのでした。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばで生きる」という聖句を思い浮かべるのは、私1人ではないと思うのですが、どうなのでしょうか。
『イソップ』の「アリとキリギリス」であれば、勤勉と怠惰の教訓物語となってしまいますが、フレデリックとその仲間たちは、互いに互いを必要とする、互いに補い合って益を成す、つまりは分かち合いの物語となっています。このことは、スイミーとその仲間たちについても同じです。
これら2冊の絵本に登場する小さな魚たちと野ねずみたち全てが「見えない糸」で引っ張られ、「共に生きる」ために、集団に在って「自分」という存在の必要性と有用性を十分に感受していたことでしょう。
鱗が黒いことで目の役目をする、尾びれの一部となる、光を蓄える、木の実を運ぶ。それぞれに固有の資質があり、特質があり、しかし、そこに優劣はない。
そう考えてゆくと、それぞれに備えらえているものとは、神様の賜物としか言いようがないと思えるのです。
「互いに一つ心になり・・・」、それは魚にとっても、野ねずみにとっても、人間にとっても、普遍のテーマなのでしょう。
大越さんはレオ=レオニがオランダ生まれのユダヤ系であるとの出自にも触れていましたが、作品の底に『聖書』という水脈がとうとうと流れているのかもしれません。
(いわき市郷ケ丘在住)
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