042回 光原社

大越 章子

 

画・松本 令子

『注文の多い料理店』出版の地

光原社

 盛岡駅から歩いて10分ほど、旭橋を渡って間もなくが材木町で、等身大の宮沢賢治の座像やチェロのオブジェがある通 りに光原社はある。その中庭に「宮沢賢治 イーハトヴ童話 注文の多い料理店 出版の地 1924年」の碑が建っている。
 賢治は生前、本を2冊出している。1冊は心象スケッチ『春と修羅』、もう1冊はイーハトヴ童話『注文の多い料理店』で、どちらも1924年(大正13)に作られた。『春と修羅』は自費出版、『注文の多い料理店』は盛岡高等農林学校で賢治の1年後輩だった、及川四郎の杜稜出版部(現在の光原社)から出版された。
 及川は胆沢郡姉帯村(現在の奥州市姉帯)の旧家出身で、旧制一関中学から盛岡高等農林学校に進学した。卒業後は農林学校時代の友人の近森善一と共同で「東北農業薬剤研究所」をつくり、農薬の製造販売や農業教科書の出版を始めた。
 そのころ賢治は花巻農学校の教師をしていて、近森が害虫駆除剤と『病虫害駆除予防便覧』を売りに行くと、「童話ならいくらでもある」と、升目いっぱいに大きな字で書いた原稿用紙を見せた。近森はそれを預かり、及川と相談して出版することにした。
 ところがその後、近森が高知の実家に帰ったまま戻れなくなり、及川は出版費用の工面 に苦労した。しかも『注文の多い料理店』(定価1円60銭)はまったく売れず、賢治は印税の代わりに100冊もらっていたが、父からお金を借りて200冊を買い取った。本の奥付の発行所には杜稜出版部と並んで、東京光原社とある。光原社の名は賢治の発案という。
 このあと及川は、農業書の販売に各地を歩く際に手土産にしていた南部鉄瓶に目を向け、名工を迎えて南部鉄器の製造と販売を始めた。さらに鉄瓶のさび止めに使っていた黒漆から、漆器にも携わるようになった。そして昭和12年、光原社はいまの場所に移転した。その時、賢治はもうこの世の人ではなかった。
 及川の相談相手の1人に、彫刻家の吉川保正がいた。「おもしろい人がいる」と吉川が及川に紹介したのが、民藝運動の提唱者の柳宗悦だった。光原社は東北の民芸の調査に訪れた柳、陶芸家の濱田庄司や河合寛次郎、染織家の芹沢 介など工芸家たちのサロンにもなった。
 盛岡の日常を伝える雑誌「てくり」の最新号で光原社を特集している。取り寄せて読んでいたら、どうしても光原社に行きたくなり、この夏、花巻に出かけた際に訪ねた。
 喫茶のある画廊、洋品店と並んで、光原社は楚々とある。暮らしの道具がきれいに並んだ店、喫茶室、『注文の多い料理店』関係の資料室など、品のいい小さなモール街になっていて、中庭に「出版の地」の碑も建っていた。つきあたりには北上川が流れている。
 教師時代の賢治は材木町に本やレコードを買いに来ていた。その通 りに自分の等身大の坐像が置かれ、「出版の地」の碑が建てられるとは、思いもしなかっただろう。

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