063回 Μy way

大越 章子

 

画・松本 令子

太陽の光と自由があれば、人生に悔いはない

Μy way

 マーラーの交響曲第五番の四楽章「アダージェット」をBGMに、会場の両側の壁にありし日の若松紀志子さんの姿が映し出された。説明は何もない。アルバムをめくるように、いろいろな時代の紀志子さんが現れ、集まった人々はそれぞれに追想した。いわきワシントンホテル椿山荘で開かれた、紀志子さんのお別 れの会はそんなふうに始まった。

  紀志子さんは京都で生まれ育ち、女学校入学のころ、父の故郷の滋賀県大津市に転居した。8人兄姉の末っ子。小学1年生の時に「大きくなったらピアニストになるんや」と家族に宣言し、東京音楽学校(現東京芸術大学)でピアノを学び、23歳の時に画家の若松光一郎さんと結婚した。
  いわきで暮らし始めたのは昭和20年、大空襲に遭った東京から常磐湯本町の光一郎さんの実家に疎開した。終戦後、光一郎さんが復員し、東京に戻ってピアニストとして再出発する思いは強かった。
  しかし音楽学校の恩師に「これからは地方の時代。いわきに定着して才能を発揮し、育てあげることこそ、あなたの使命ではないか」と言われ、ピアノ教師の道を選び、都会に負けないような才能のある子どもを探して伸ばそうと心に決めた
 レッスンは厳しかった。1つ1つの音を丁寧に、曲にこめられた作曲家の気持ちを考えて弾く。くり返しのミスは許さない。心から心へ伝わるものを大切にする。音楽の素晴らしさ、喜びをわかち合いたくて、レッスン室には緊張と情熱がぶつかり合った。
  まだ東北が文化不毛の地と言われたころ。文化に対する意識の温度差に、逃げだそうと思ったこともある。押しとどめたのは恩師の言葉と、道ばたの雑草のなかで見つけた、たくましく美しく咲くアザミだった。何もないところから始めることに意義を見出し、人を育てることこそ素晴らしく、実りのあることはないと実感してきた。
  ピアノは音楽の基本で、しっかり向き合えば、管楽器や弦楽器、作曲など好きな道が選べる。都会のピアノの先生は純粋にピアノを学びたい人に教えていればいいが、地方ではそうはいかない。窓口を広げていたからこそ、さまざまな分野のすてきな音楽家たちが育った。

  お別れの会では、そのアザミの門下生たちが献奏した。合唱団の指導や作曲など幅広く音楽活動をしている石河清さんが「しかられて」を歌い、指揮者の小林研一郎さんが思い出にふれながら弾き語りをし、磐城高校合唱部OBが紀志子さんに指導された歌を歌った。
  アザミの教室が50周年を迎えた15年前、「期待と希望を持って教えられ、喜びが味わえる」と紀志子さんが才能を評価していた土屋恵さん(当時・小学2年生)もピアノを弾いた。恵さんは音楽大学を卒業してスペインに留学し、ピアノの道を歩いている。
  「太陽の光と自由があれば、人生に悔いはない。それにピアノとテニスがあれば言うことなし」。そう話していた紀志子さんは、春風のようだった。アメリカにピアノを教えている100歳の女性指導者がいることを知り、自身も生涯現役を目指していた。 
  一昨年秋に、光一郎さんの没後15年の記念の展覧会がいわき市立美術館で開かれ、その後、体調を悪くして車いすの生活になった。3.11の震災で川崎に避難し、お年寄りの施設で暮らした。「落ち着いたら、いわきに帰れる」と信じ、明るく過ごしていたという。
  今年2月に流行病にかかり、体力は衰えたものの、春には家族みんなで満開の桜を眺めた。そして4月23日、永遠の眠りについた。96歳だった。
  著書『Μy way』のあとがきで、紀志子さんは「私の人生のフィナーレの時には、大好きな『マイ・ウェイ』を歌ってほしいものです」と締めくくっている。その希望通 り、孫の婚約者がピアノを弾きながら「Μy way」を歌って、お別 れの会は終わった。

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