064回 アルプスの花ものがたり

大越 章子

 

画・松本 令子

草原に吹く風がまとわりついてくる

アルプスの花ものがたり

 ヨハンナ・シュピリのハイジの文庫本をリュックに入れて、スイスの山を旅したことがある。マイエンフェルトのハイジの山、ベルニナアルプス、マッターホルン、アイガー、ユングフラウ、モンブラン…。山々の間をぬ って登山鉄道が敷かれ、ロープウェイやリフトもあるから、4000mを超える山を間近で見られる展望台までたやすく行ける。
  夏のアルプスは、トレッキングしながらいろんな角度から山を眺め、花畑や湖を巡り、マーモットやアイベックに遭遇する。アルプスの3大名花と言われるアルペンローゼとエンチアン、エーデルワイスを探して、植物ガイドと一緒に歩くのも楽しかった。
  この夏、郡山市立美術館でエルンスト・クライドルフの展覧会を見てから、スイスの旅の風景が記憶のアルバムから時折現れ、谷間を見おろす山々、草原に吹く風やにおい、凛として立つマッターホルン、カーヴェルの音、氷河の感触など、いろいろ思い出している。

  クライドルフはスイスの絵本画家で、19世紀後半から20世紀初めのヨーロッパの絵本の黎明期を代表する1人。擬人化した植物や動物、空想の生き物たちを描き、独自のこだわりを持って絵本作りをした。
  それも、ほとんどは連続した物語ではなく、ページごとに完結する日常の出来事を描き、あとは読み手の想像力に委ねている。ページをめくると余韻は打ち消され、登場人物も場所も何もかもが変わり、新しい物語が始まる。その変化の潔さに、最初は戸惑う。
  幼いころ、クライドルフは祖父母が暮らすスイスの農村で過ごし、スケッチブックを持って野原を歩き回り、植物採集や毛虫集めをしていたという。だから、描いた動植物はそれぞれの特徴をよく捉えて擬人化し、自然の本質を見事に伝えている。植物のことや花にまつわる神話などを知っていると、謎解きのようにクライドルフの世界はより深まる。

  「小さな生き物の世界は私にとって、大きな世界と同じぐらい美しく大切だった」。クライドルフはそう語っていた。野に咲く植物や、そこで生きる虫たちを描きながら、アルプスの大自然の世界をも表現している。  残念ながら代表作の『花のメルヘン』も『アルプスの花物語』も絶版になっている。図書館の書庫から出してもらい、借りてページをめくっていると、アルプスの花々のにおいのする風がまとわりついてくる。
  アルプスの夏は瞬く間に過ぎていく。クライドルフの花ものがたりを読みながら、夏の余韻をもう少し楽しもうと思う。

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