094回 水戸 巌さんのこと

大越 章子

 

画・松本 令子

いのちをどれだけ重く考えられるか

水戸 巌さんのこと

 昨年の夏、東京の池本英子さんから1冊の本が届いた。英子さんは夫の達雄さんとともに大塚のモスクに協力している。震災のあと、泉町にあるいわきモスクを拠点に、作家で編集者の森まゆみさんなどと避難所で炊き出しをして、空き時間に日々の新聞社にも訪ねてくれた。
 本は『原発は滅びゆく恐竜である』(緑風出版)。いまは亡き原子核物理学者の水戸巌さん(1933―86)の著作・講演集で、福島第一原発事故の深刻さが泥沼化しているなかで、「水戸さんがいたら」と思った昔の知人たちが、編集委員会をつくりまとめた。
 頼まれて講演をしたり、雑誌に書いたりはしたものの、水戸さんの活動は多岐にわたり、生前、著書を出す時間的な余裕はなかった。この世を去って25年後に福島第一原発の事故が起き、初めての著作が出版された。

  水戸さんは横浜市生まれ。宇都宮高校から東大理学部に進学し、大学院を修了後、甲南大学の教員になり、東大原子核研究所の助教授を経て、芝浦工大の教授に就いた。高校時代、解析概論を独学して量 子力学にふれ、素粒子の世界にあこがれを持ったという。
 いつもいのちを重んじ、人々に寄り添う人だった。甲南大時代は神戸の反戦運動団体の設立にかかわり、東大原子核研究所時代は、反戦運動が高まる時期と重なり、多くの逮捕者が出るなかで救援活動を始めた。  70年代に入ると原発に反対する地域住民に頼まれ、1人で現地に出かけ、やがて全国の地域住民運動と弁護士、学者をつなぎ、自らも物理学者として法廷に立った。そして芝浦工大に移ったあとは、車を運転して日本中を回り、原発立地地域の松葉を定期的に採取して、線量 測定を続けた。
 原発は必ず事故を起こすものだという確信から、事故を未然に防ぐための測定だった。脅迫や嫌がらせがエスカレートした時期にも、毅然とした姿勢を貫いた。しかし3人の子どもの安全を考えて、妻子は関西に移り住ませた。
 子どもたちが成人し、夫婦が一緒に暮らせるようになったのは、86年のお正月から。その年の春にチェルノブイリの事故が起き、そして年末には双子の息子たちと恒例の冬山に登り、北アルプスの剱岳で遭難して、亡くなった。53歳だった。

 原子力発電が夢のエネルギーとされていた時代に、水戸さんはいち早くその危険性を明言し、破局的な事故が起きる可能性を論理的に指摘して、その被害についても警告し続けた。チェルノブイリの事故直後には、新聞の投書欄で「こんな危険を目のあたりに見ながら、『引き返せない』ほど、人類はおろかなのであろうか」と意見を述べている。
 ある時、妻の喜世子さんが「科学者のなかで反原発派がなぜ多数派になれないのか」と尋ねたという。水戸さんは「人のいのちをどれだけ重く考えられるかどうかが分かれ道だね」と答えた。
 福島第一原発の事故が起き、喜世子さんは「巌さんがいたら」と思い、亡くなってから初めて涙が堰を切ったように流れた。『原発は滅びゆく恐竜である』を読みながら、わたしも「水戸さんがいたら」と、繰り返し思った。
 原発は、6500万年前に絶滅した恐竜よりもずっと手強い。

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