107回 「月光」のものがたり

大越 章子

 

画・松本 令子

はかない恋と病の苦悩、変革がひそむ

「月光」のものがたり

 このあいだ、いわきでピアノを教えながら、室内楽やソロで演奏している津山博子さんのコンサートを聴いた。テーマは「Fantasie」。幻想曲のことで、形式にとらわれず楽想のおもむくまま、自由なスタイルで作られた曲をプログラムに集めた演奏会だった。
 例えば、ショパン幻想即興曲や幻想ポロネーズ、モーツァルトの幻想曲ニ短調など。休憩前の前半最後の曲はベートーヴェンの幻想曲風ソナタ、「月光」だった。中学生のある時期、その第三楽章をずいぶん聴いた。「四大ピアノ・ソナタ」のレコードの三楽章の始まりに針をのせて、そこだけつまみ聴きしていた。
 久しぶりに「月光」を聴いて、静かな月夜のイメージが広がる一楽章の雰囲気が二楽章で一転し、そして激しく高ぶる三楽章の存在が生きると感じた。
 この曲が作られたのは1801年。その数年前から、ベートーヴェンは耳の病に悩まされていた。風邪がきっかけの耳の不調は誤った治療で悪化し、孤独へと追い込まれていった。そのころ、ピアノを教えていた伯爵令嬢のジュリエッタ・グィッチャルディにこころひかれ、「幻想曲風ソナタ」が生まれた。
 幻想曲風ソナタがなぜ「月光」と名づけられたのかには諸説あるようだが、研究者のなかで有力なのは、一楽章を聴いたドイツの詩人ルートヴィヒ・レルシュタープの言葉「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」が広がり、名づけられたというもの。 
 津山さんのコンサートの翌週に放送されたEテレの「ららら♪クラシック」でも、そう説明がされていた。初めからわかっていたことだが、ベートーヴェンのはかない恋は身分の違いからまもなく終わり、「月光」が世に残ってジュリエッタの名も留められた。
 翌年の秋、ベートーヴェンは静養していたハイリゲンシュタットで、弟と甥に宛てた遺書を書いている。そこには日ごとに進む難聴への恐怖と絶望、屈辱のなかで「私はほとんど自暴自棄になり、すんでのところで自らのいのちを断つところだった」と記されていた。
 けれど投函されず、遺書を書いた直後にベートーヴェンはウィーンに戻って「交響曲第二番」を作り、そのあと「交響曲第三番」(英雄)の作曲に取りかかった。ハイリゲンシュタットの遺書は1827年、ベートーヴェンが亡くなった翌日、棚のなかから見つかった。

 音楽の出発点がピアニストで、ピアニストとしても有名だったベートーヴェンにとって、ピアノは身近な創作の友で、初期から晩年まで40年、ピアノ・ソナタを書き続けた。当時はフォルテピアノ。現代のピアノとは音も随分、違って静かでやわらかで、邸内で演奏されることを前提にしていた。
 ベートーヴェンは、それまで職人芸扱いをされていた音楽を「芸術」と最初に言った革新的な音楽家で、伝統を無批判的に踏襲するのを嫌い、常に新しいものを求めた。「月光」にも随所にその心意気が見られる。ひとすじの希望の光と、不器用で頑固だった人柄も。

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