011回 湯ノ岳日和

大越 章子

 

画・松本 令子

登山靴もリュックもいらないプチ登山

湯ノ岳日和

 久しぶりの青空が広がった月曜の朝、ベランダで大きく深呼吸をした。さわやかな空気を胸いっぱい吸い込んで、吐いてを繰り返すと、隅々の毛細血管にまでとりたての酸素が行き渡る感じがして、気分は爽快だった。「きょうは湯ノ岳日和」。そう思った。 

 学生時代に山岳部員だった父に誘われ、子どものころから山登りをしている。いまも年に1度ぐらい、初夏から秋に年季の入った登山靴を履く。なぜ山に登るのか、うまく説明はできない。ただ毎年、ある日突然、山の空気と緑のシャワーが恋しくなってそわそわし、「今年はどこに登ろう」と相談を始める。
 湯ノ岳日和は「行きたい」と思った次の瞬間には、もうその方向に車を走らせられるプチプチプチ登山。登山靴もリュックもいらない。スカートにパンプスで大丈夫。アクセルを踏んで緩やかなカーブが続く山頂への道をゆっくり上る。 目指すは山頂近くにある、山小屋風の紅茶の店「ウェルハース」。天気のいい日、窓辺の席に座ってパノラマを眺めながら、お昼ならジャムをつけたあったかなパン、午後3時ごろならクロテッド・クリームをのせたスコーンを頬張り、気ままに選んだ紅茶を飲む。
  ぽっかり浮かんだ雲や周囲の木々、水平線そばに浮かぶ船、それにテーブルに飾られた野草など、その時々、ロケーションは違う。
  紅茶の店は5年前にオープンした。場所探しをしていた店主の川島慶一さんは、一目で山頂近くのその場所が気に入った。そこに立つと、つくりたい店のイメージが広がり、土地のエネルギーのようなものも感じたという。 
  相談したほとんどの人には「やめた方がいい」と言われた。かなり悩んで、まちなかの物件も見て歩いた。そんな時、田んぼの真ん中にある店と出会った。「魅力のある店なら、どんな場所でも人は来る」。何も根拠はなかったが、この場所でやれると思った。

 時間がゆっくり、しっかり流れる山小屋。車からその灯りが見えると、なぜかとても安心する。確かに室内には山の空気が漂っている。

 

そそのほかの過去の記事はこちらで見られます。