137回 日々是好日

大越 章子

 

画・松本 令子

世の中にはすぐにわからないものがある

日々是好日

 祖母の家の奥にはお茶室があって、小学生のころ、遊びに行くとよく「お茶室にいらっしゃい」と言われ、お茶の所作を教えられた。若くして夫を亡くした祖母は、結婚を機に辞めた教師の職に復帰して3人の息子を育てたが、そのころはもう定年退職して、研鑽しながら後進を育てるお茶三昧の日々を送っていた。
 廊下のつきあたりの水屋まで行くと、背筋がぴんとしてくる。そうして襖の前に座り、作法に従ってお茶室に入る。そこには違う空気が流れていて、襖1枚隔てた世界の変化にいつも戸惑い、なじむまでに少し時間がいった。その空気に違和感がなくなるのと反比例して、正座した足がしびれてくる。
 暮れに映画「日々是好日」を見ていて、祖母のお手前や茶室の様子、時々のちいさな稽古を思い出した。茶釜の湯気、床の間の掛け軸と茶花、季節感のある美しいお菓子、茶を点てる茶筅の音、お茶室に吹く風や光、祖母の声や手の動きまでが、まざまざと蘇ってきた。
 それはたぶん、茶室に入る時は左足から、畳1帖を6歩で歩く、折り紙のような帛紗(ふく さ)さばき、茶碗は「ゆ」の字に茶巾で拭き、お茶はズズっと音を立てて飲みほすなど、だれもが初めは戸惑い、その意味を問いたくなるお茶の所作が初心者の素直な視点で描かれていて、共感できるからだろう。
 エッセイストの森下典子さんが自身の体験をまとめた『日々是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』を映画化したもので、20歳の女子大生が母に勧められて茶道を始め、20数年、稽古に通 い続けるものがたり。積み重ねられた日常は、ひとりの女性が大人になっていく過程でもあり、紆余曲折あるなかで、お茶を通 して大切なものに気づいていく。
 黒木華さんが演じる主人公は、お茶のさまざまな所作の意味を、樹木希林さん扮する茶道教室の先生に尋ねる。すると先生は「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず形から。先に形を作っておいて、その入れ物にあとから心が入るものなのよ」と説明する。
 お茶の稽古を毎週続けながら、主人公はだんだん五感を使って全身で、瞬間を味わえるようになる。そして、世の中にはすぐわかるものと、すぐわからないものがあって、すぐにわからないものは長い時間をかけて少しずつ気づいてわかってくる、と言うようになる。

 小学校の卒業と同時にわが家は祖母宅から数分の距離にあった家から引っ越し、祖母の不定期な稽古も終了した。その後、大人になっても、教室に通 うなど積極的にお茶を習ってはいない。道具も一式揃っているが、それできちんとお茶を点ててもいない。
 ただ寒い季節、たまにお抹茶が飲みたくなるので、そばに茶碗を置いてお盆点てをする。いまならお抹茶のおいしさもわかる。それに映画の先生や大人になった主人公の言葉の意味も。他界して30年近くになるが、美しい和菓子を見つけると、お土産に祖母に買いたくなる。

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