138回 マリアン・アンダーソンのこと

大越 章子

 

画・松本 令子

好きなことに真摯に情熱を持って向き合う

マリアン・アンダーソンのこと

 アメリカのコントラルト(アルト)歌手のマリアン・アンダーソンを知ったのは、末盛千枝子さんの『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』(現代企画室)を読んでだった。
 千枝子さんは彫刻家の舟越保武さんの長女。一家は昭和20年に保武さんの郷里の盛岡に疎開し、26年の夏に東京に戻った。2年後、保武さん夫妻は日比谷公会堂の音楽会に出かけた。それがマリアン・アンダーソンの音楽会だった。 
 プログラムにはシューベルトの「魔王」があった。医者に診てもらうため、息子を腕に抱いて夜の闇を馬で駆け抜ける父親。高熱にうなされた息子は風に吹かれた葉や木々が、まるで魔王(死神)の囁きに聞こえ、途中で息絶えてしまう――。 
 音楽会から帰宅した保武さん夫妻は、まるで女神に会ってきたかのように興奮して、それがどんなに素晴らしかったかを、留守番していた子どもたちに詳しく話して聞かせた。当時、中学生だった千枝子さんは、まるで自分も音楽会に行っていたかのように思えたという。 
 盛岡から東京に戻る数年前、保武さん夫妻は生後8カ月の長男を急性肺炎で亡くしていた。子どもが病気になると急に悪くなって、死んでしまうことが少なくない時代だった。マリアン・アンダーソンが歌う「魔王」を聴きながら、夫妻が長男に思いを寄せたのは想像に難くない。以後、千枝子さんにとって、マリアン・アンダーソンは特別 な音楽家になった。 

 昨年夏、千枝子さんの『小さな幸せをひとつひとつ数える』(PHP出版)で、再びマリアン・アンダーソンに出会った。その本では両親が出かけた音楽会のはなしとともに、マリアン・アンダーソンの半生をたどる絵本『マリアンは歌う』(光村教育図書)を紹介している。
 マリアン・アンダーソンは1902年、フィラデルフィアの貧しい黒人家庭に生まれた。父さんは着替えながら歌い、台所では母さんがハミングして、いつも歌がそばにあり、マリアンは幼いころから歌うことが大好きだった。
 6歳ぐらいから聖歌隊で歌い始め、18歳の時、音楽学校に入学しようとしたが黒人を理由に拒否された。けれどあきらめず、23歳で高名な音楽家ジュゼッペ・ポケッティに学び、4年後、ビクターで黒人霊歌のレコーディングをして、翌年、コンサートデビューした。
 10年後、オーストリアのザルツブルク・フェスティバルでトスカニーニの前で歌って「あなたのような声は、100年に1度しか聞けない」と絶賛された。それからも黒人差別 と戦いながら、その翌年にはニューヨークのカーネギーホールで歌い、9年後、ようやく黒人歌手では初めてメトロポリタン歌劇場に立った。 
 『マリアンは歌う』を開くと、最初の頁に立派な劇場の舞台の絵が現れる。57歳でやっと立てたメトロポリタン歌劇場で、最後の頁に描かれているのも、その時に公演したヴェルディのオペラ「仮面 舞踏会」の舞台。がっちりした絵で描かれたこの絵本から、マリアン・アンダーソンの歌への思い、人種差別 の苦悩、どんな屈辱を受けても誇りを失わず、強い態度をとらない人柄や姿勢が伝わってくる。
 ライブ放送音源から黒人霊歌はもちろんバッハやヘンデル、モーツァルト、シューベルト、ヴェルディ、ブラームス、フォーレなど、幅広い曲目を収録したマリアン・アンダーソンのCDを聴いてみた。低音で深く重厚、それでいてやさしく、あたたかい。 
 「マリアンの声はさまざまに変化して/聞き手のあらゆる感情を呼びさます/こぬ か雨のような歌声が/朝日を浴びてきらめいたかと思うと/たちまち雷鳴となって暗い空にとどろくのだ」と、絵本に記されているが、ほんとうにそうだ。 
 子どものころ、マリアン・アンダーソンは母さんに「何を学ぶにもいいかげんにしてはいけません。たとえ、よけいに時間がかかるとしても」と言われていた。もちろん才能もあったが、好きなことに真摯に、謙虚さを忘れず情熱を持ち続けて向き合えば、いつか道は開け、なにかが変わってくる。
 マリアン・アンダーソンは1993年、96歳で亡くなった。

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