長久保赤水が生まれた家には「誕生地」という石碑があります。その家は長久保家が赤浜に来て最初に住んだ家ですが、本家は江戸時代に水戸へ転居してしまったため、一族が順番に屋敷跡を守っています。現在住んでいるのは長久保源蔵さんです。赤水の父・善次衛門はその家の次男で、赤水が七歳のころに分家して家を移りました。転居したのは、私の家の前にある家で、61歳までそこで農業をしながら学問に励んでいました。
長久保家は戦国時代、静岡県駿東郡裾野町に城を築いて、部下を養っていました。ところが東に北条、北は武田、西は今川に囲まれていて、最終的には小田原の北条に攻められて船でこちらに逃げてきました。上陸したのが小名浜だったそうです。
その後、渡辺町泉田にある岡部城、勿来の窪田城、北茨城の車城などを経て、赤浜で帰農しました。関ヶ原の戦いが終わり、流浪の大名ではだめだと思ったのでしょう。それが1605年(慶長10)です。
赤水は60歳のときに、6代水戸藩主・治保公の侍講となり、80歳まで、江戸小石川の水戸藩邸で暮らしました。侍講が終わったあとも、水戸光圀が始めた「大日本史」の地理志を担当して、仕事をしていたのですが、体を心配した子どもたちから「早く帰って来るように」と言われ、赤浜に戻りました。そのときから住んだのが私の家で、73歳のときまで江戸でともに暮らしていた妻と一番上の孫と一緒でした。前の家には長男がいました。
私は勿来から長久保家の婿に入ったのですが、赤水から数えると8代目に当たります。赤水の母は、日立から嫁いできました。赤水は、その母が持っていた本で勉強したといいます。継母は北茨城の関南町上岡の農家出身で、学問はなかったらしいのですが夫(赤水の父)に頼まれ、夫亡きあとも実家には戻らずに赤水の面倒を見ました。あまり裕福でないなかで、約4km離れた私塾に通わせました。
家に資料があったときには、「赤水のことを知りたい」と、1年に何回か団体や個人の見学者がやって来ていたので、部屋に展示をして説明していました。いまは資料のほとんど資料館に行ってしまったので、屋敷を見せる程度ですが、説明を求められることもあります。
赤水は両親と弟を早く亡くしているし、体が弱かったこともあって健康に注意していたようです。江戸に出たあとも、「健康食としての食用菊や焼き梅などを送って」と手紙に書いたことが、記録として残っています。だから83歳まで生きられたのでしょう。性格的には、とても温和な人だった、と伝わっています。