444号

 半年に1度は編集室を訪れ、高校野球談義をしていった。最後に会ったのは1月19日。そのときは変わった様子もなく、「どうしたら、いわきの高校が甲子園に行けるのか」という話題で盛り上がった。それだけに、その訃報はあまりにも突然で驚きだった。

 小名浜で生まれ、地元の中学校から東京の早稲田実業に進学した。「本格的に野球をやって甲子園に行きたい」という思いからで、1学年上には王貞治さんがいた。しかし入学してすぐ父親が死亡。志半ばで帰郷し、次の年に磐城高校に入り直した。当時の監督は常磐炭礦から派遣されていた石川成男さん。甲子園には出られなかったが、日本大学で野球を続け、常磐炭礦でも中心選手になった。そして母校・磐城高校の監督を任されたのは、まだ26歳のとき。4年間で2回甲子園に出場し、そのうちの1回は準優勝(1971年)という金字塔を打ち立てて、時の人となった。
 チームづくりの特徴は、守って走れるチーム。自らあがり症で力を発揮することができなかったことから、徹底した反復練習で体に覚え込ませ、どんな状況でも反応できるようにした。それはかなりきつく、耐えて残れるのはわずかだったが、猛練習で培われた守りで球際に強くなり、相手に食らいついていく泥臭い野球が生まれた。合言葉は、ベンチが一丸となって立ち向かう「総力の協和」。その意識がチームに浸透すると、夏に強いチームができ上った。「精神のバネを強くすることで普段通りの野球ができる。高校野球は一発勝負だから力が上のチームにも勝てる」というのが口癖だった。
 その後、安積商(現在の帝京安積)、東日大昌平高校、東日本国際大などの監督を務めた。基礎を中心に練習して土台をつくり上げ、ある程度の成績を残すのだが、突き抜けることができない、という状況が続いた。
 よく「チームをつくるうえで大事なのは3年生を重視すること」と言っていた。2年半の厳しい練習に耐えて技術を磨き、人間としても成長すること。、それを一番に考えた。肝心なところでチームを救ってくれるのが、そういう生徒たちだった。しかし、私立では野球を通しての教育というよりも性急に結果が求められた。「甲子園準優勝」という実績があるからこそ、なおさらだった。須永さんにとっての高校野球は、普通の高校生が本分である勉強をしっかりしたうえで、懸命に練習してうまくなり、みんなで強豪を倒す野球だった。

 通夜と告別式には、田村隆寿さん(投手)をはじめ準優勝メンバーが顔をそろえた。糖尿病が悪化し膵臓を患っていた棺の中の須永さんは、驚くほど痩せて小さくなっていた。