ストリートオルガン

大越 章子



画・松本 令子

踊ることが生きること、心にいつも炭砿があった

さようなら、恵美子さん

 

 昨年8月に79歳で亡くなった、初代フラガールで舞踊家の小野恵美子さんのお別れの会が3月3日、スパリゾートハワイアンズのラピータで開かれた。会場でプロローグに流れた、常磐炭坑節など恵美子さんのさまざまな踊りの映像を見ていたら、これまでの恵美子さんとの思い出がいろいろ浮かんできた。

 恵美子さんを最初に認識したのは、子どものころに見た常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾートハワイアンズ)のステージだった。次は地元紙に勤めていた時、恵美子さんが主宰するエミ・バレエスクールの1階のスペイン料理「エスパナ」に同僚たちと行って、毎週金曜日に行われていたフラメンコショーを見た。
 そのあと「わたしの少年少女時代」というテーマで初めてインタビューした。炭砿まちの内郷で生まれ育ち、幼いころから踊りが好きで、音楽が聞こえると自然に体が動いた。小学3年生の時につくられた、炭砿の子どものためのバレエ教室に高校3年生まで通い、卒業後はその教室の先生だった香取希代子さんの元で本格的に学びたくて――と、踊りとの出合いを話し、写真撮影のためにレッスン室で踊ってくれた。
 「わたしの存在は踊りと同居しているの」。インタビューでの言葉は恵美子さんを象徴し、印象に残っている。恵美子さんにとって踊ることが生きることで、こころにはいつも炭砿があった。
 そして2006年、映画「フラガール」の撮影現場で久しぶりに会った。後日、時間をつくってもらい、初代フラガールになったきっかけや、常磐音楽舞踊学院の開校から常磐ハワイアンセンターのオープン当時のことを聞いた。
 映画は公開から2カ月ほどで観客動員が100万人を突破する大ヒットとなった。映画が話題になればなるほど、恵美子さんはそのモデルと注目され、日常の忙しさがさらに増した。それまでの恵美子さんであれば、とても喜ばしいことで、持ち前の努力と気力と体力ですんなりとやり遂げたはずだ。
 けれど周りが心配し、混乱するほど様子は違った。原稿の依頼も結構あって、恵美子さんと話し合いながら代筆したが、もともと書ける人なので時間的にその余裕がないものとばかり思っていた。あとで若年性のアルツハイマー病であることがわかった。
 2008年の初夏、恵美子さんに病気のことを尋ねた。すると、いくらかの間のあとに「いやになっちゃうわね」とため息をつき、すっと涙が頬をつたった。「レッスンしていて、これはいまさっき生徒に言ったかもしれないと思うの。すると怖くなってしまって、自分が信じられない」と言った。
 天気のいい昼下がり、生まれ育った内郷宮町まで、ふたりでドライブして、かつて恵美子さんが住んでいた社宅を探し、母校の宮小学校や竹ノ内銀座、バレエ教室が開かれた浅野記念館があった場所なども訪ねた。夫の英人さんと3人で、人生の師といえる東京の香取さんの家に行ったこともある。
 最後の記念公演では準備の段階から、できる限り恵美子さんの姿を追った。その合間にも恵美子さんはあちこちで講演した。傍らには先輩で、コールシスターズのキャプテンだった山野辺京子さんがいて、ふたりでの対談講演だった。
 記念公演を終えたあとは、自宅で過ごすことが多くなった。デイケアの帰りなど、たまに、英人さんと編集室に来てくれた。そのうち高齢者施設で過ごすようになったが、ハワイアンソングが流れる部屋で、ベッドに横になりながらリズムに合わせて手足を動かしていた。

 お別れの会には、それぞれに恵美子さんとの思い出がある300人ほどが出席した。ステージでは恵美子さんからバトンを渡された人たちが次々、お別れの舞を披露した。現役のフラガールたちが「フラガール~虹を」、フラ甲子園に何度も出場しているオイスカ浜松国際高校のフラダンス部は「オテア じゃんがら」を踊った。
 最後に、記念公演のラストの、恵美子さんが椅子に座ったまま手話のように手振りで思いを表現した映像が流れ、会はお開きとなった。手を合わせて祈る恵美子さんから、それぞれにメッセージを受け取った。

 

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