第416号

416号
2020年6月30日
長久保赤水自画像 協力:高萩市教育委員会

 

一里の道のりが人生の原点

 「長久保赤水」という存在が、以前から気になっていた。『安南国漂流記』を表し、『東奥紀行』では閼伽井嶽の龍燈についても書いている。伊能忠敬より前に質の高い日本地図を編集し、幕末には、吉田松陰が赤水の墓を訪ねたという。でも武士ではなさそうだ。学者だろうか。その経歴や仕事を見ると、才能に溢れていて、とても枠にはめることなどできない。そんな赤水のことを知りたくて、生まれ故郷の高萩市赤浜を訪ねた。

 赤水は1717年(享保2)に生まれ、1801年(享和元)に亡くなった。83年8カ月の生涯だった。その時代は、徳川幕府だと、8代将軍吉宗から11代の家斉、水戸藩は5代藩主宗翰から6代治保にあたる。農民として生まれた赤水は私塾に通って勉学に励み、60歳のとき侍講(先生)として、治保に直接講義するようになる。農民出身者が侍講になるのは初めてのことだった。
 そのころの水戸藩は財政が逼迫し、藩政改革を求められていた。父が酒におぼれて自死し、15歳で藩主になった治保は,郡奉行を4人から11人に増やして農民の生活状況を調べさせた。そうした奉行のなかに皆川教純がいて、赤水を見出すことになる。
 赤水が皆川に提出した「芻蕘談」という意見書がある。「芻」は草、「蕘」は木のことで、「草刈りや木を切る者の話」という意味を込め、あくまで農民の立場にこだわった。そのころの農業は労苦ばかりがのしかかってきて、間引きが横行していた。農業を離れて商人に鞍替えしたり、博打を生業とする渡世人になる者があとを絶たず、農村は疲弊していた。百姓一揆も起こった。
 赤水は「芻蕘談」のなかで「7年の病気に3年のよもぎ」ということわざを例に出し、すぐに結果が見えなくても何年かあとには効果が出るはず。日々、人の命を救うことを考える藩政を敷くべき、と訴えた。さらに、70歳以上に食料を与えている新発田藩のことを例に出し、「だから農民たちは親の長寿を願い、親孝行をしている」と付け加えた。赤水の見識は治保の侍講になってさらに生かされ、治保が進める、農政改革の中核を担っていくことになる。

 侍講が終わったあとも、文化や学問に力を入れていた治保から「大日本史」の地理志編纂を命じられた赤水は江戸に留まり、80歳になってやっと赤浜に戻った。街道筋にあり海が近い赤浜は、いまも当時の面影を残している。
 肉親をすべて失い、継母の勧めで通った私塾。その1里(4km)の道のりが赤水の原点だった。そこで仲間たちと語り合い、切磋琢磨して儒学を深く学んだ。持ち前の好奇心は天文学や地理学へと発展し、世界が広がった。しかも自らの見聞をより多くの人に知ってもらうために地図を作り、本を出した。そして最終的には藩政にまでかかわり、農民たちの暮らしをよくするために一役買った。
 若くして天涯孤独になったこともあるのだろう。赤水は子どもたちを大事にし、江戸から頻繁に手紙を出した。その子孫たちがいまも、赤浜で暮らしている。広大な敷地は常磐線と6号国道に分断されてしまったが、静かに目を閉じると当時の風景が立ち上がってくる。


 特集 長久保赤水

 江戸中期を生きた長久保赤水は、農民でありながら伊能忠敬に先駆けて日本地図を編集し、60歳のときには水戸藩主の侍講となり、藩の農政改革などに力を発揮しました。後世にさまざまな書などを残した赤水の人生と、ゆかりの地を取材しました。

久保 和良さんのはなし

 和良さんは赤水から数えて8代目にあたり、水戸藩主の侍講となった赤水が、侍講後赤浜に戻って住んだのが和良さんの家でした。赤水は肉親を早く亡くしたためとても健康に気を遣っていたこと、温和な人だったことなど、伝わっている話を聞かせてくれました。

夏井 芳徳さんのはなし

  夏井さんが赤水のことを詳しく知ったのは、閼伽井嶽の龍燈を研究し始めてからです。赤水図や赤水の書には閼伽井嶽の龍燈の記述があり、閼伽井嶽に見に行った時のことも具体的に書かれています。
 日本地図を作った赤水ですが、少なかった東北の情報を集めるための旅が「東奥紀行」だったのではと夏井さんは考えています。

関内さんは社報で閼伽井嶽を取り上げました。資料を調べるほど、いわきの中心には閼伽井嶽があったのではないかという気がしたそうです。

佐川 春久さんのはなし

 佐川さんは東京出身ですが、高萩の歴史を学ぶうち赤水に魅せられ、今は長久保赤水顕彰会の会長を務めています。
 赤水は伊能忠敬よりずっと前に経度、緯度を用いた正確な日本地図を編集しました。にもかかわらず、あまり知られていません。江戸のベストセラー・赤水図が庶民や後世に与えた影響や、赤水の生き方について話を聞きました。

高萩町歩き

 赤水は高萩の赤浜で生まれ育ち、晩年を過ごしました。生誕地の碑、旧宅があり、旧宅の庭には隠居生活を送った松月亭の碑が建てられ当時を伝えています。旧宅の近くには赤水と両親、継母の墓が並んで建っています。
 松岡城があった周辺は景観ガイドラインが作られ、石畳の道、黒塀など江戸時代を思い起こさせる整備がされています。赤水が私塾へ行くために通ったいわん坂など、ゆかりの地を歩きました。

  

 記事

日々の本棚

 『災害とアートを探る』  赤坂憲雄 著

 福島県立博物館の前館長赤坂さんと日本の災害史の研究をしている北原糸子さんの対談からはじまり、東日本大震災後の博物館とアートとの取組みなどがまとめられています。災害の記憶を伝えていくためにアートが重要と綴られています。

 連載

戸惑いと嘘(50) 内山田 康
歩いて触れて触れられて考えてまた歩く(3)


阿武隈山地の万葉植物 湯澤 陽一
(13)ヤマユリ


地域新聞と新聞人⑭ 小野 浩
皇太子ご夫妻いわきに


今号から松本令子さんの連載がスタートします。

もりもりくん カタツムリの観察日記① 松本 令子
プロローグ


ぼくの天文台(55) 粥塚 伯正 
ひかるもの

 

 コラム

ストリートオルガン (152) 大越章子
百貨店