192号 「可楽知」のこと(2011.2.28)

画・黒田 征太郎

斉藤哲夫の曲が空気のように流れていた店

「可楽知」のこと

 来月3日、バー・クイーンにフォークシンガーの斉藤哲夫さんがやってくる。感慨深い。
 
 1970年代から80年代にかけて、平の田町に「可楽知」というカウンターだけの小さな飲み屋があった。そこではよく、斉藤哲夫がかかっていた。「バイバイ・グッドバイ・サラバイ」「グッド・タイム・ミュージック」「さんま焼けたか」…。たぶん、みんなが「うがちゃん」と呼んでいたママさんの好みだったのだろう。妙な空気が漂っている、居心地のいい店だった。
 そういうたぐいの店には、不思議と理屈屋や変わり種が集まる。「作家の田中小実昌がいきなり現れて、『いい店だね』と言ってマッチ箱にサインをしていった」という話を聞いたときには、「さすが」とその嗅覚に脱帽したものだ。
 うがちゃんは、みんなのアイドルであっても、ママさんではなかった。カウンターのあっちとこっちに分かれてはいたが、同志のような大切な存在だった。当時は手取りで10万円を切るほどの安月給だったから、給料日前に飲まなければならない事情ができると、必ず「可楽知」へ行って「よろしくお願いします」と言った。うがちゃんは、ちゃんと心得ていて、呆れ顔をしながらも気分良く飲ませてくれた。そして給料日には、借金を返しがてらまた飲むのだった。
 ある日、同僚が書いた交通死亡事故の原稿がボツになった。何回デスクに提出しても、その記事が紙面に載ることはなかった。事故を起こした加害者が、大口のスポンサーだった。報道部内が静まり返った。
 どうなることでもないことはわかっていたが、許せなかった。記事を書いた仲間のことを思うと、気の毒すぎて慰めの言葉も出なかった。みんな必死になって怒りをこらえていた。あのときの張り裂けそうな静けさは、いまでも忘れられない。その夜、うがちゃんがカウンター越しに言った。
「みんなで、本当の新聞にしていかなくちゃね」

 その後、うがちゃんは常連客の一人だった、みっちゃんと結婚して店を閉めた。「可楽知」は違う店になったが、常連たちは、だれ一人として行こうとは、しなかった。そのうち、かなり古かった建物は壊されてビルが建った。
 あのとき、地域紙の悲哀をいやというほど味わって心で泣いた仲間たちは、時を隔てて次から次へと会社を去っていった。
 桃の節句に行われるコンサートで、還暦の斉藤哲夫が何を歌うのか楽しみではある。

(安竜 昌弘)

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