140回 芙美子さんと夜の森のさくら(2019.4.15)

大越 章子

 

画・松本 令子

花ふぶきのころと紅葉したトンネルが好きだった

芙美子さんと夜の森のさくら

 日曜日の朝7時のNHKのニュースで、夜の森(よのもり)のさくらが中継された。1週間前に開き始め、7、8分咲き。さわやかな朝の空気と光のなかにピンクのトンネルがふんわり浮かんでいた。
 L字型に2.2km続く夜の森のさくら並木の大半は帰還困難区域で、自由に眺められるのは南側の300mだけ。その先はバリケードが設置され、立ち入りが制限されている。事故から8年が過ぎ、前日の土曜日には初めて、1日限定でバリケードのなかの並木を走る、特別 な観桜バスが運行されたという。
 ニュースをつけたまま朝刊をめくっていると、歌人の馬場あきこさんが選んだ朝日歌壇の歌が目に留まった。

 福島の夜の森の桜悲しけれ
 廃炉見つづけ咲くほかはなし

 栃木県下野市の女性の歌で、馬場さんは「夜の森は桜の名所だったところ。廃炉に近い桜の悲しい命運」と評している。原発事故以降、さくらの季節になると前にも増して、夜の森のさくらを想う。「今年もひとしれず咲くのだろうか」と。同時に、今年は横浜の気賀沢芙美子さんを想わずにはいられない。

 芙美子さんとは2011年の秋、弟の目良誠二郎さんを介して知り合い、夜の森のさくらを植えた半谷清壽さんと、夜ノ森駅のツツジを植えた六郎さんについての原稿をお願いした。清壽さんは芙美子さんと誠二郎さんの曾祖父、六郎さんは祖父にあたる。
 仏文研究者で、その年の春まで大学で教えていた芙美子さんは、こころよく原稿を引き受けてくれ、翌年の初めから3回にわたって「桜とツツジの夜の森」が日々の新聞に載った。そのあとに日々のブックレット「このいちねん」を作った時も全文を掲載した。

 小高町で事業を広げた清壽さんは110年ほど前、築いた財を投じて夜の森と隣接地の原野を買いとり、近代的な理想の大農園づくりのために開拓を始め、まちをつくった。さくら並木は、清壽さんがその地に住まいを移した翌年の1901年(明治34)に植えた。
 一方、六郎さんが夜ノ森駅の両側の斜面にツツジを植えたのは1939年(昭和14)のこと。東京の駒込駅を真似たが、オオムラサキばかりでは面 白くないと、色とりどり4000本を購入したという。毎年、花時に配色を考え、時には自身の庭から抜いて駅に移すこともあった。
 芙美子さんは1941年(昭和16)の秋、家族とともに東京から夜の森に移り住み、子ども時代の9年近くを過ごした。さくら並木は花ふぶきのころと、秋の赤い朽葉色のトンネルのころがお気に入り。夕暮れどきにした、お風呂の焚きつけの落ち葉拾いもいい思い出だった。
 ところが原発事故が起きて、曾祖父と祖父が開拓した夜の森は放射能に汚染され、人々は避難を強いられた。やるせない思いでいっぱいの芙美子さんは「原発をなくそう」と福島市で開かれた集会に参加したこともあった。

 原稿の掲載後も芙美子さんとは時々、電話や手紙で互いに近況報告をしていた。福島の状況や音楽、本、植物、日々のことなど話題は尽きず、ついつい長話になった。復活させた横浜・野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」など、機会はありながら会えないままだった。でも、かっこよくて爽やかで行動的で、あたたかい人柄をよく知っている。
 夜ノ森駅のツツジは駅構内の除染に伴い、2016年秋に伐採され、今年1月には木造の駅舎(1921年建設)も解体された。そして2月、芙美子さんが天国に召された。79歳、1年半近く病と闘ってのことだった。 
 「桜とツツジの夜の森」のなかに「2011年4月には住む人も訪れる人もいない街となってしまった夜の森で、逆向きL字の2本の桜並木はどのように花時をやり過ごしたのだろう」との一文がある。いまごろ、芙美子さんは空から夜の森のさくらを眺めているだろうか、香りを胸いっぱい吸い込んでいるだろうか。
 この季節、芙美子さんと夜の森のさくらを想う。

 

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