172号 阿部忠文さんのこと(2010.4.30)

画・黒田 征太郎

新聞は、世の中をちょっとだけ変えればいいんだ。

 阿部忠文さんのこと

 寒い日が続いたからだろうか。ことしは桜の持ちがよかった。
 この季節はドライブが楽しい。少し走ると桜のトンネルとぶつかり、人知れず咲いている銘木と出会える。遠く山を眺めると、そこでも桜が微笑んでいる。不思議と景色が明るく感じられる。
 先日、知人が車のなかで「年をとってくると、あと何年生きられるだろうではなく、あと何回桜が見られるだろう、という心境になってくる」と話していたが、桜には、そう思わせる魅力がある。

 17、18日と用事があって上京した。桜はすでに散っていた。時間があったので高速バスを浅草で降り、辺りを散策した。浅草寺で人混みに揉まれ、浅草演芸場で落語を聞き、もんじゃ焼きを食べて水上バスで浜離宮へ向かった。
 演芸場では桂文雀の真打ち披露が行われていた。橘家圓蔵、林家正蔵、文雀の師匠である桂文生が個性を見せていた。浅草らしい庶民的なもんじゃ焼き屋では、お節介なおばさんに「まだ早い」と指導を受け、水上バスで隅田川に架かる橋をくぐりながら地ビールを飲んだ。
 吾妻橋、蔵前橋、両国橋、佃橋…。ガイドさんの「橋物語」を聞き、築地を横目に東京湾に入って汐留にある浜離宮に上陸した。意識のなかで時代が平成から江戸へと戻っていく。
 かつて将軍家の別邸だったというだけあって敷地が広く、枝振りのいい銘木が目立つ。ところどころにさまざまな種類の遅咲き桜があるのだが、凛としていて威厳さえ感じる。一木一木と向き合いながら得した気分になった。

 最近、入社希望が立て続けてあり、面接した。そのうちの1人は東京で仕事をしている青年で、まっすぐな眼差しが印象的だった。「なぜ日々の新聞なんですか」と尋ねると、読売新聞いわき支局長をしていた、阿部忠文さんが書いた記事を読んだという。青年の父は阿部さんと同期入社の記者で、その記事は父から見せられた、ということだった。
 阿部さんは7年前、「風」というコラムで「経済的に厳しい状況にあるいわき市で、新聞創刊の道は険しい。その挑戦を温かく見守りたい」と、日々の新聞にエールを送ってくれた。その時は、ふいに電話がきて姿を現すと、要点を取材してまさに風のように去っていった。
 そしてそのあと食道に癌が見つかった。手術を受けて1度は回復したが、癌が再発して帰らぬ人になった。
 酒の席で阿部さんがいたずらっぽく言ったことがある。「中央公園に猫のグループがいくつあるか知ってる? しかもときどきメンバーが入れ替わるんだよ」。地に足の着いた視点を持っている記者だった。
 阿部さんは機会あるごとに「新聞は、世の中をちょっとだけ変えればいいんだ」と言っていたという。薫陶を受けた後輩はそれを「『新聞は社会の木鐸』と構えるのではなく、現場に出て取材し、小さな社会正義の実現を重ねていくことこそが記者の仕事、という意味」と胸に刻んだ。 
 阿部さんは不器用だが温かい人だった。そして男気があった。散る桜の潔さが、その生きざまと重なる。

(安竜 昌弘)

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