野良猫の縄張りもわからないんじゃはなしにならない
阿部さんのこと |
「日々の新聞」が最初に記事として登場したのは、2003年2月16日、読売新聞福島版の「風」というコラム欄だった。当時のいわき支局長、阿部忠文さんが書いた。そのころは創刊準備号を出したばかりで、先がどうなるかかいもく見当がつかない状態だった。「とにかく創刊号を出さなければ」と焦っていたような気もする。そんなとき阿部さんから「ちょっと話を聞きに行っていいか」と電話がかかってきて、手際よく取材をして帰っていった。そして数日後に、過不足のない記事が載った。
そこには「いわきにまったく新しい地域新聞が生まれようとしている。独自のジャーナリズムをめざす『日々の新聞』だ。新聞創刊の道は険しい。その挑戦を温かく見守りたい」と書かれていた。
そのころ阿部さんは、自宅兼用の支局といわき市役所を歩いて行ったり来たりするのが日課だった。その間には公園があって、野良猫たちがたむろしていた。ときどき餌をやっていたのかもしれない。なぜか公園の野良猫事情に詳しかった。
飲み会での阿部さんの話も、新鮮だった。北海道の雪原で、死の恐怖を感じながら大きなエゾシカを1発で仕留めたこと、公園で出会う野良猫たちには3つのグループが存在しているらしいこと…。そこには自分ならではの世界観があった。
漏れ聞いたところによると、阿部さんは一匹狼的な職人気質の記者で、管理的な上司とぶつかることが多かったという。静かで余計なことは語らなかったが、胸の奥にはさまざまな葛藤が渦巻いていたのだと思う。
その阿部さんが奥さんの死をきっかけにすっかり元気がなくなり、間もなく自らも食道癌になって、逝ってしまった。どんな顔をしていいのかわからず見舞いにさえ行っていないが、「阿部忠文」という先輩記者の存在はしっかりと心に刻み込まれ、いまでもときどき思い出す。
公園の野良猫の話は、ひょっとしたら「政治や行政をばっさりやるのもいいけど、もっと足もとを見ないとだめだよ。近くにある猫の縄張りもわからないんじゃ、はなしにならない」という教えだったのかもしれない。それは「日々の新聞」が大切にしているアンダスンの言葉、「ありふれてみえる町の日々の一つ一つには、人がそこで生きている無言の物語が籠められている。語られることのないそれらの物語を語ることができなくてはならない」と通じている。
(安竜 昌弘)
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