60年代のように共通言語としての音楽を持ちたい
雨に打たれて |
「たしかに私(たち)にとってもあの時代は『いい時代なんかじゃなかった』。死があり、無数の敗北があった。しかしあの時代はかけがえのない〝われらの時代〟だった。ミーイズムではなくウィーイズムの時代だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく子どもたちのことをわがことのように考えようとした。戦争に対してプロテストの意志を表示しようとした。体制のなかに組み込まれてゆく自分を否定しようとした。そのことだけは大事に記憶にとどめたいと思う」
川本三郎さんの『マイ・バック・ページ』の「あとがき」に出てくる一節。この本には「ある60年代の物語」という副題がついていて、映画化もされた。
1972年、「朝日ジャーナル」の記者だった川本さんは、その前年の夏に起きた朝霞自衛官刺殺事件の取材を通して、証拠となる腕章を燃やし「証憑湮滅」を図ったとされ、朝日新聞社を追われた。60年代から70年代へ。何かが終わろうとしていた時代を目をこらして見つめようとしていた27歳の記者が、言論機関である新聞社に切り離されたのだ。川本さんが最後まで守ろうとしていたのが、「取材源の秘匿」というジャーナリズムの良心だっただけに、同じ記者として深いため息が出た。
川本さんはその後、フリーの文筆家となり、映画や文芸評論などで頭角を現す。そして15年後、「SWITCH」に、あの事件のことを書く。編集者は私と同世代で、あとに知り合うことになる新井敏記さんと角取明子さんだった。
川本さんとは、年が9歳半違う。ベトナム戦争に明け暮れた60年代に青春時代を送った川本さんと、1975年に20歳だった私とでは、漂う時代の空気感が異なる。でも、あの時代の残り香のようなものは嗅いでいて、熱かった時代への憧れのようなものがある。同じく「遅れてきた世代」の新井さん、角取さんもそうだったのだと思う。
あの時代といまを比べてみると、重なることが多い。60年代から70年代はじめにかけて、安保闘争、ベトナム戦争、学生運動、大阪万博、沖縄返還協定などがあり、この5年は原発事故、抗議行動、秘密保護法、安保法、沖縄基地問題ときて、2020年には東京五輪が開かれる。最終的に万博やオリンピックで矛先をかわす姑息なやり方も、共通している。
でも決定的な違いがある。時代の気分を表現する象徴的な音楽が、現代では見当たらないのだ。
ウディ・ガスリーのギターケースにはステッカーが貼ってあって、「これはファシストをやっつける機械」と書かれていた。その精神がボブ・ディランやジョーン・バエズなどに受け継がれ、さまざまなプロテストソングが生まれた。
クリーデンス・クリヤーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)がナパーム弾を雨に見立てて「フール・ストップ・ザ・レイン(雨を止めるのは誰)」と歌い、ディランやバエズは「ハード・レイン・ア・ゴナ・フォール(激しい雨が降り続く)」と繰り返して、静かな怒りを音と言葉に乗せた。あの時代には、すぐ手が届くところに平和への願いや反戦があり、世相として日常化していた。でもいまは、それが断片的でつながらないし、広がらない。
川本さんは「あの時代は象徴的にいえばいつも雨が降っていた。バリケードのなかは水びたしだった。時代が少しもやさしくなかったからこそ逆に『やさしさ』が求められた」とも書く。
いまの時代に、共通言語としての音楽を持てない不幸を思う。『はじまりの日』という絵本はディランの「フォーエヴァー・ヤング」を訳したものだが、そこに「先人からもらったものを使うのがフォークの伝統」と記されている。
ディランは1963年、フォークフェスティバルでジョニー・キャッシュからギターを贈られる。敬愛する歌い手に大事なギターを手渡し、昔からあった土着のメロディーに新しい歌詞をつけるのがフォークの精神で、ディランの「風に吹かれて」も古い黒人霊歌に歌詞をつけたものだ。
見せかけの平和や楽しさに埋没して太陽を享受し、「ミーイズム」に浸るのではなく、あえて雨に打たれ「ウィーイズム」について考えたい。故郷を追われた福島の人たちや基地に苦しむ沖縄の人たちのことを、自分のことと捉えたい。そして、部屋の片隅で眠っているギターを持って外へ飛び出して歌を歌い、声をあげる人を増やしたい。60年代の思いを受け継ぎ、次に手渡してこそ、私たちの伝統になっていく。
(安竜 昌弘)
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。