自分のものを多少削って人に喜びを与える
デイケアの父 |
わが家の前に住む90歳近い大叔母が、昨年暮れからクリニックのデイケアに通 い始めた。足腰が弱らないように毎日、自分で歩く練習をしてきたが、お風呂に入って立てなくなることが続き、歩行訓練と入浴を目的に、とりあえず週に1日、利用している。
頑固できかん気の強い大叔母のこと。一度「いやだ」と言ったら梃子でも動かないことを想像し、周りは細心の注意を払いながら、少しずつデイケアを説明した。心配をよそに、大叔母は「お年寄りの幼稚園みたいなところね」と、素直に受け入れた。
その一方で、一緒に暮らす娘は「無理にさせようとしているのでは」という葛藤にさいなまれたが、「本人のため」と自分に言い聞かせ、デイケアに持ち歩く布バックを作り、上履きに名前を書いて“入園”の準備をした。
いまでは当たり前に行われているお年寄りのデイケアを、全国でも先駆的に始めたのは勿来町の医師、斎藤光三先生だった。
先生は昭和35年、医大の助手を辞めて故郷の勿来町に戻り、旧勿来市の川部診療所に勤めた。石炭産業にかげりが見え始めたころで、中小の炭鉱が点在した川部村(現在の川部町)には生活保護世帯が多く、農家の納屋や雨漏りのする炭鉱住宅に、一人ぽつんと置かれた病弱なお年寄りたちを往診した。その姿は孤独で、疎外されているように見えた。
その後、勿来町窪田町通に開業し、一人暮らしや家で虐待されているお年寄りが気になり、お年寄りの医療への思いはさらに強くなった。病気や臓器に対する治療より、人間的な側面 から援護する看護の重要性を感じたという。
お年寄りを取り巻く環境や生活に合わせた食事、運動、入浴、精神衛生などの援助が必要だったが、診療所の外来での対応は難しかった。暮らしの場からお年寄りを切り離さず、看護やリハビリ、レクレーションなどで生きる意欲、健康の回復力を高める。それが、当時は言葉もなかったデイケアだった。
昭和49年、先生は診療所を増築してデイケアを始めた。お年寄りは午前十時に診療所に来て、問診や診察を受けた後、運動や手芸、園芸、詩吟などを楽しみ、必要に応じて入浴もした。昼食は手作りの給食を先生や看護師さんと一緒に食べ、午後は昼寝をしたり、テレビを見たり、おしゃべりしたりと思い思いに過ごし、四時ごろ帰宅した。
「お金にならないことを」と不思議がる周りの声があったが、お年寄りたちとのかかわりから、必要に迫られて生まれたものだった。全国レベルの研究会や医療セミナーにも参加し、手探りのなかで情報を集め、問題を提起した。末期がんの夫を妻が家庭で介護していた盲目の夫婦の援護をきっかけに、訪問看護も始めた。
それぞれのお年寄りに合ったケアの実践は迷うことも、壁にぶつかることも多かった。いのちへのいとおしさがそれを乗り越える大きなエネルギーになり、そしてそのエネルギーは、お年寄りの援護にかかわる多くの人たちを巻き込んでいった。
「豊かなまちづくりはこころ豊かな住民意識がなければ不可能で、隣人として困窮している人々とかかわりを持つこと。自分のものを多少削っても、人に与える喜びを感じる人が増えたら」。ふと漏らした言葉に、先生の願いが込められている。
大叔母はこれまでに未遂を含めて2度、登園拒否ならぬずる休みをしたが、デイケアに通 い始めて、明らかに変わってきている。家族から離れ、自宅の外に出て他人のなかで過ごす空間、時間には緊張感があり、気持ちがしっかりするのだろう。新しい小さな社会に接し、おしゃべり好きな大叔母は前より話題が豊富になり、表情もいきいきしている。
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