083回 キルトに込めた思い(2014.4.15)

大越 章子

 

画・松本 令子

遠くにいても思っています

キルトに込めた思い

 7人の女性たちが集い、テーブルを囲んでおしゃべりしながら布地を縫う。映画「キルトに綴る愛」にはそういう場面 が度々出てくる。婚約はしたものの結婚に懐疑的な孫娘のために、祖母と仲間たちが1枚のキルトを仕上げる。その間に女性たちそれぞれの愛のものがたりが回想され、やがて孫娘の迷いも消える。
 女性たちがおしゃべりを楽しみながら、1枚のキルトを縫う集まりをキルティングビーと言う。大阪府箕面 市のキルト作家の内田富美子さんが教えてくれた。ビーはbee(蜂)。ぶんぶん騒がしい蜂の巣になぞらえた言葉で、キルトビーとも言うらしい。
 ヨーロッパで広まったキルトは移民によってアメリカに伝わり、開拓時代にキルティングビーが開かれるようになり、女性たちの社交場になった。そのうち女性たちは教会に集まって社会に関心を持ち始め、慈善事業へと広がって、禁酒運動や奴隷解放運動など署名したキルトが嘆願書代わりに掲げられたという。
 もともと暮らしのなかから生まれたものだから時代とともに変化し、いま、創作キルトなどオリジナルのキルトも、世界各地で独特の手法で作られている。
 キルトは布と布の間に綿などを挟んで縫い合わせたものだが、富美子さんは布で絵を描くように構図をつくり、自分の思いをひとり針にのせると言う。30代半ばに、世界の伝統的なキルトを紹介した本を見て作り始め、アメリカなどを何度も訪ねて学び、教室を持ち、作品展も開くようになった。
 自然や風土、文化が異なるように、キルトも国や地方によって大きく違う。そのため富美子さんはよく旅に出かけ、自然のなかに身を置いて五感を開放し、イメージを広げる。無理に何かを得ようとはしない。気になればこころにつかめるまで、繰り返し通 って熟成させる。
 沖縄がそうだった。35年前に最北端の辺戸岬に建てられた祖国復帰闘争碑の碑文に感銘し、いのちの尊さと平和の願いを込めた作品を30年かけて完成させた。震災・原発事故後はいわきや双葉郡を訪れ、あちこち歩いて肌で感じ、暮らす人たちと話をして起きたこと、もたらされたもの、それぞれの気持ちを考え、変化していくものを見つめている。
 この3月にはキルトの仲間と4人で訪れ、楢葉町まで出かけ、久之浜では浜風商店街に立ち寄り、平で自然食品などを置く善林庵でオーナーの本間裕英さんと話し、湯本駅前の和菓子店久つみの久頭見淑子さんとも仲よくなった。
 3度目のいわきの旅だったが、ますますわからなくなっているというのが富美子さんの正直な気持ちで、10年は通 い詰めないと形にならないと覚悟している。
 富美子さんのこの3度目の来訪には、もう一つ目的があった。1993年に制作したハワイアンキルトを、旅の最終日にハワイアンズに贈った。
 19世紀に宣教師の妻たちから教えられ、誕生したハワイアンキルトは布地をふんだんに使い、ハワイの空や海、生息する植物をモチーフに、白を基本に原色で大胆に作る。このごろはハワイアンキルトも創作的なものが目立つが、富美子さんは素朴な昔ながらのものを好む。
 93年製のキルトは縦横2mの正方形で青い海に、ジャスミンローズが人と人とのこころを結ぶレイのように咲いている。5年ほど温め、思いをずっしり込めて作ったという。ぎっと歯を噛みしめ、腰に力を入れて針を進めるのだろう。できあがるころには歯が1本ぼろぼろになり、腰も痛む。
 キルトは人や国、地域を大切にした文化の1つで、何か不測の事態が起きた時、体に巻いて暖をとることもできるし、布団にもなり、雨が降ったら傘にもなり、くるまれて愛情も感じられる。ハワイアンズに贈ったキルトには「いつも思っています」と、富美子さんの気持ちが込められている。
 ハワイのホテルには必ずハワイアンキルトが飾ってあって、人々を出迎えてくれる。富美子さんのキルトはいま、ハワイアンズのウィルポートの入口に飾られている。
 「(キルト作りに)ルールは何もない。こころの声に従い勇気を持つこと」。映画「キルトに綴る愛」のなかで、キルト作りの指南役の女性はそう話す。富美子さんも思いだけで布と糸をつづる。いわきに通 って制作する作品は、日本の有り様を表現する。年齢を考えると、最後の仕事になるかもしれないという。

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