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 2歳年下の弟が1歳の時、インフルエンザの予防注射の後遺症で寝たきりになった。一緒に暮らしながら、医者になって弟をみたいと思った。

 中学2年の時、不登校になった。ほんとうに医者の道でいいのか、両親の期待に応えられるのか、などと思い考えてのことだった。キリスト教の精神を持ちながら、自分の生き方を見つめたくて、高校は山形県小国町の基督教独立学園に進学した。
 もともと人とのつきあいは上手じゃなかった。寮で共同生活をして泣いたり、笑ったり、いろんな衝突をして友達ができた。学校生活は普通の高校と同じように授業があったり、放課後は部活動ではなく農作業そして、お米以外の食べ物は自分たちで作った。
 それまで目標を持って勉強一筋に生きてきたが、美しい自然、それに土にふれて息がすうっと抜けた。離れてみて、家族のありがたさ、両親の気持ちもわかった。そして、自分自身が医者になりたいと気づいた。
 2年の浪人生活をして、山形大学医学部に入学した。しかし周りの友達を見ていて疑問を持った。テスト前に友達のノートをコピーし、カンニングをしていい点数をとる。「なぜみんな、この道に進んだのか」。幻滅し、授業を受けるのが嫌になった。
 そんな時、大学の市民講演会で、医者で有機農業をしている竹熊宣孝さんの話を聞いた。「医者は初め、病をみる。次は人。社会をみる医者になりなさい」。感銘して6年間、年に1、2度、竹熊さんを訪ね、農業奉仕をしながら泊まらせてもらった。
 そこには医学生、農業や栄養を学ぶ学生などさまざまな人たちが集まり、健康とは何か、地域の人たちに何ができるかなどを語り合い、人と人のつながりを学び、病を病院の中だけでなく、広い視野でみることの大切さを知った。それが、医者の志の基になった。

 子どもが好きだったこと、それに弟をみたかったから、医学部に入学した時点で、小児科を決めていた。言葉を話せない子どもを診られれば、話のできない弟のこともわかるし、分科されていないので広く診られると思った。
 脳の障害を学びたくて、卒業後は小児神経のある東北大学に入局した。しかし大学院の研究はラットやマウスを使っての実験で、早く臨床の現場で子どもたちの診療をしたかった。仙台市立病院に2年、それから共立病院に10年籍を置いて、救急病院の現場で奮闘した。
 がむしゃらにその日、その日、与えられた仕事をこなした。重症の患者がいつ来るかわからない。こころが休まることも、家庭を顧みることもなかった。周期的に「このままでいいのか」という思いに襲われた。しかし仕事を最優先して休まなかった。

 3年ほど前だった。担当した患者が亡くなった。1カ月持ちこたえ、何とかなるかなと思っていた矢先の突然の死だった。懸命にやってきたのに力は及ばず、患者と家族の気持ちを思い、虚無感に陥った。共立病院に勤めて10年、医師不足の渦中で体力も精神も限界に近かった。うつ状態になり、仕事を何とかしている感じだった。共立病院を辞めて、福島整肢療護園に移った。
 共立病院に勤めてから月に1度、療護園で専門のてんかんの患者を診察していた。共立病院にも重症の寝たきりの患者はいたが、日々、刻々と様態が変わった。療護園も重症度は同じだが、生活の場でもあり、治療するだけでなく、どうすれば家庭的に楽しく過ごせるかを考えなければならない。
 療護園に移っても、仕事優先は抜けなかった。しかし3週間ほど前から、十数年なおざりにしてきた父親業をしている。不登校の2人の子どもに付き添って学校に行っている。これまで頑張ってきた妻は子どもを迎える役になり、分担を始めた。子どもと一緒に学校に行って、見えてきたことがある。子どもの社会でも思いやりがあって初めて、人間が生きていける。

 医者にとって大切なことは共感できるこころ、想像力だと思う。目の前にいる患者の病状や気持ち、それに家族の思いをきちんと把握してこそ、よりよい医療ができる。それに、どんなに忙しくても、医者が生きている充実感を味わえる体制になってほしい。
 弟は2000年に36歳で逝った。35年間ずっと寝たきりだったが、最後まで家庭で過ごした。その存在は大きく、ただいてくれるだけでよかった。家庭の中心にいて家族の絆を結びつけてくれた。







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