江戸時代まで温泉宿場町として栄えた湯本は、明治になって国策である石炭採掘に翻弄された。炭鉱が石炭を掘って行けば行くほど、湯本を支えてきた源泉の水位
は下がり、ポンプを使っても出なくなった。仕方なく坑内で出た廃湯を温泉として使う時代が、昭和の炭鉱閉山まで続いた。
そうした状況を打開しようと、町や有志が立ち上がったことがある。昭和8年(1933)に結成された「湯本愛湯会」で、その中心が町長の石川徳寿だった。石川は「自分たちの手で温泉を掘ろう」と呼びかけ、有力者たちを説得して回った。
2年後には湯本100年の計とも言える「湯本温泉観光開発図」をつくり、将来の湯本のあるべき姿を町民に示した。しかし、莫大な財源が必要なことから、賛成派と反対派に分かれて激しく対立、反対派から怪文書が出る騒ぎになり、町政が混乱した。
石川は茨城県那珂郡五台村(現在の那珂市)の生まれ。若いころは税務官吏として各地を回り、30歳を前にして湯本に住みついて、米穀商を営んだ。昭和6年に福島県議選で当選すると、翌年の町長選に推されて出馬し、当選。その後は愛湯会活動に突き進んでいく。しかし、さまざまな困難が待ち構えていた。
まず、活性化策の中心である温泉掘削が土地問題でつまずいた。反対派の妨害だった。やっと掘削が始まったと思ったら、十分な量
の温泉が出なかった。ボーリング(試掘)をやり直そうとすると、さらに資金が必要になり、反対派が市民を巻き込んで抵抗した。議会は紛糾が続いた。市長になって任期の4年が過ぎ、何とか再選を果
たしたが、掘削や活性化計画は思うに任せなかった。そして昭和13年6月、石川が急逝し、求心力を失った愛湯会の活動は一気にしぼんでいく。温泉掘削工事も中止されたが、のちにそこから50m離れた場所から温泉が出るという、皮肉な結果
になった。
昭和10年に作られた観光開発図を見てみる。そこには湯の岳展望台や自動車道(スカイライン)、天然動物園、観音山と御幸山を結ぶケーブルカー、町営グラウンド(野球場)、プール、愛湯館浴場(ヘルスセンター)、愛湯会ホテル、公園などが配置されている。山に囲まれていて平地が少ない湯本の地形を生かし、観光客だけでなく地区民が憩えるように配慮していることがわかる。
しかもその後、湯の岳には展望台とパノラマラインができたし、丸山公園、スパリゾートハワイアンズ、グリーンスタジアムもある。ある意味、まちは佐川の思い描いた通
りになった。それにしても、いまの湯本市街地は、あまりに寂しすぎる。ここは歴史に学びながら足下を見据え、これからの湯本を自分たちの手でどうするのかを、考えるべきだろう。当事者による熱い思いや議論が、町を変える原動力になっていく。
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