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第143号
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産廃最終処分場問題
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もう一人のまどか先生
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DAY AFTER TOMORROW
(1)プロローグ
(2)出会い
(3)スタートライン
(4)レッスン
(5)踊りの真髄
(6)縁は異なもの
(7)祈り
番外編
常磐炭砿の東京本社で。恵美子さんは後段・右から3番目
「東京に出て、香取先生のもとで本格的に踊りを学びたい」。
昭和36年、ダンスクラブの締めくくりの県高校総体を終え、恵美子さんは卒業後の進路を考えていた。踊りを続けるにはどうしたらいいか。それが目下の悩みだった。香取先生の内弟子も考えたが、先生の自宅に弟子が寝泊まりできるスペースはなく、難しかった。
東京で就職する、そして踊りのレッスンを続ける。浮かんだのは常磐炭砿本社だった。幼いころから父に連れられ、行き慣れていた炭砿事務所を訪ね「わたしでも常磐炭砿の本社に勤められないかしら」と、総務の人に相談した。
本社の女性社員はほとんどが東京での採用だったが「たまにはヤマの人もいいか」と就職話は進み、入社試験を受けることになった。そして合格、次は住む家探しだった。ところが、ちょうど父の武市さんに、常磐炭砿が小金井市に持っていた学生寮の舎監への異動があり、家族全員で東京に移り住むことになった。
すべて、副社長の中村豊さんのはからいだった。
■
石炭から石油へのエネルギー革命で、常磐炭砿もかげりが見え始め、新事業を模索していた。恵美子さんが東京本社で働き始めた昭和37年の暮れには2000人の人員整理案が示され、常磐炭砿女子野球団「コールシスターズ」も解団した。
そんな時代に中村さんが思いついたのは、坑内から湧き出る温泉を利用したレジャーランド構想だった。アメリカでレジャー施設を視察した帰り、中村さんはハワイに立ち寄った。飛行機から一歩出た瞬間の暖かな心地よさ、素朴で情熱的なトエレ(打楽器)の音は日本の祭太鼓の音と重なった。
「日本のハワイをつくって、フラダンスやポリネシアンダンスを見せよう」。中村さんの頭に浮かんだ。温泉を利用した巨大な温室に熱帯植物を植え、温泉プールを造り、ショーを上演する。具体的なイメージができあがった。
その日本のハワイで働く人たちは、もちろん炭砿の社員と家族たち。それでこそ、一山一家の炭砿精神が受け継がれる。中村さんは香取さんにダンスを踊る娘たちの教育を相談した。「やるなら学校をつくってほしい。基礎からちゃんと教えたい」。香取さんは言った。
■
ダンスを踊る娘たちの募集が始まった。対象は内郷市と常磐市の中学卒業生。炭砿の世話人たちは年頃の娘のいる家を回って勧誘したが、昭和39年の半ばになっても、定員の半分に満たなかった。
その状況に「地元にこだわらず、東京で募集し、東京で教育したほうがいい」と、アドバイスする人もいた。しかし中村さんは「常磐炭砿の精神が生きている芸能を目的とする。それは炭砿人の血を受け継ぎ、炭砿の空気で育ってきた人が踊ることで達せられる」と考えを曲げなかった。
ただ、娘たちの募集は福島県全域にまで範囲を拡大した。
■
その年の東京本社での忘年会だった。余興をする人がいないため、恵美子さんが華やかな衣装を借りて、ラテン系の踊りを披露した。それを中村さんが見ていた。「あの子、いいんじゃないか」。間もなく、恵美子さんは人事課に呼ばれた。
「だれか結婚を約束した人はいるの?」などと尋ねられ「常磐ハワイアンセンターでダンスを踊ってほしい。香取先生も恵美ちゃんを薦めている」と言われた。
東京でのOL生活は楽しかった。香取先生のレッスンに通ってはいたが、日々の遊びの方が忙しかった。このまま普通 に事務の仕事を続けていくか、それとも好きな踊りで少し彩りのある人生を歩んでみるか。「やってみないとわからない」。2、3年ぐらいなら、と軽い気持ちで決めた。
当時、ハワイアンブームだった。会社の近くにもハワイアンバンド演奏の店があり、仕事の帰りに寄っていた。でも自分がハワイアンダンスを踊るなんて、それまで夢にも思わなかった。
■
翌年4月、常磐市上浅貝の保養所に全寮制の常磐音楽舞踊学院が開校した。目の前にズリ山がそびえていた。一期生は18人。平均年齢17歳で、ほとんどが踊りの経験のない娘たちだった。
開校式で、学院長でもあった中村さんは「ハワイアンセンターの将来は、学院のみなさんの努力にかかっているとも言えます。常磐の宝塚を築き上げる心意気で訓練に励んでください」とあいさつした。
恵美子さんは踊り人生のスタートラインに立った。
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