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湯本温泉の最も古い記録は、平安時代の延長5年(927)に書かれた延喜式神名帳。そこには「陸奥国磐城郡小七座・温泉(ゆ)神社」とあり、「全国の温泉神社四座の1つ」とされている。残る3つは「伊予国湯ノ神社」(道後温泉)、「摂津国温泉神社」(有馬温泉)、「下野国那須の温泉神社」(那須温泉)で、開湯はそれ以前の奈良時代と考えられている。
平安中期の「拾遺和歌集」にも「あ(飽)かずして わか(別)るる人のす(住)むさと(里)は さはこ(三函)のみゆ(御湯)る
山のあなた(彼方)か」(詠み人知らず)という1首が入っている。この歌の碑が、草野心平の揮毫で温泉神社の参道に建っている。
中世の古文書には「東海道湯本」「三箱湯本」などの記述があり、戦国時代は岩城氏の所領で若松氏が治めていた。その時代には岩城氏はもちろん、常陸の佐竹氏、三春の田村氏なども湯治に訪れたという記録が残っている。このころは名取御湯(秋保温泉)、信濃御湯(別
所温泉)とともに日本3大御湯と称されたこともある。
江戸時代になると湯本は、磐城平藩領になった。鳥居、内藤家によって治められ、内藤家が延岡に転封になった延享4年(1747)を機に、小名浜、四倉などとともに徳川幕府の領地になった。
湯本は浜街道随一の温泉地として栄え、「東遊雑記」には「温泉数多にて、家いえに湯壺あり、入湯せる人も多し」とある。それぞれの家に温泉を引いて湯舟をつくり、入浴の便を図っていたこともあって、湯治客が多かった。
江戸時代半ばの寛保年間(1741〜1744)ごろには、年平均で2万人弱もの湯湯治客でにぎわった。このころの湯本には温泉湯が自噴している湯壺が51カ所もあり、石高は約800石、家の数は167軒で、人口が875人だった。これは小名浜、平、四倉、久之浜に次いで5番目に多かった(正徳元年 諸品覚書)。
湯本は宿場町でもあった。仙台藩や相馬藩が参勤交代をする際の宿泊場所にもなり、藩主が泊まる本陣が設けられた。本陣は名主や組頭など地区の有力者宅、または格式のある宿泊施設が使われた。湯本は若松、比佐、鯨岡などが古くからの有力者で、宿としては松拍館、大滝館、山形屋などに要人が泊まることが多かった。
今回の企画展を担当している渡辺文久さんによると、幕末に湯本の旅籠に泊まった水戸の人が首を吊って亡くなったために大騒ぎになった、遊女の資料が残っているという。入湯税は1回5文で、まずまずの税収があった。さらに、湯本は小名浜、中之作に揚がった物資を内陸に運ぶ、御斎所街道の起点の1つとしての役割も担っていた。
しかし慶応4年(1886)の6月29日、戊辰戦争に巻き込まれ、新政府軍に攻められた同盟軍が湯本に火を放ったため、集落のほとんどが焼けてしまった。
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