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平字白銀にある「ポテトハウスじゃがいも」は、いわきの70年代後半から80年代を代表する店だ。辛さとごろっとしたポテトが人気の特製カレー、ジャーマンポテトにインディアンポテト、ココア…。どのメニューも、この店ならではのこだわり、個性が息づいている。
「じゃがいも」はずっと、家族の店だった。その中心にいたのが、記者だった斎藤伊知郎さんと函館出身のキクエさん夫妻。2人がどこでどう知り合ったのかは、わからない。とにかく、いまの「じゃがいも」がある場所で福住旅館を経営していた。2人には娘が3人いて、そのうちの1人が、旅館のガレージがあった場所で店を始めた。それが「じゃがいも」の原点になった。
「どんな店をやるのか」。家族で話し合い、「じゃがいも料理の店をやろう」ということになった。キクエさんが、出身地である北海道からジャガイモや生クリームなどの食材を取り寄せ、長女がドイツ料理をもとにレシピを考えた。そして、素材を生かした大胆な料理のアイデアが次々と生まれた。
その後、平の中心街を焼いた火事で旅館と店を失い、跡地に建ったホテル、東急イン(現在のエクセルホテル)の一部で、再び商売を始めた。その核になったのが、三女の成子さんと、その夫である、大阪・十三出身の前山隆さんだった。木の温もりを感じさせるテーブルや椅子、棚にずらりと並んでいる「ガロ」。店内には、かつて雑誌編集に携わっていた隆さんの思い入れと、常連客たちの思い出が、三十年分ぎっしりと詰まっていて、まるでそこだけ、違う時間が流れているようだ。
いま、「じゃがいも」は前山太郎(31)、希子(27)さん兄妹が切り盛りしている。名物店主だった父・隆さんが3年前に61歳で逝き、店を手伝っていた太郎さんが必然的に引き継いだ。そして、1年にわたって父を看病していた希子さんが、兄を手助けするようになった。
太郎さんは中学生から、父母の方針で埼玉県にある寮制の私立学校に通
っていた。「自立とゆるやかな自己主張」がモットーの学校だったが、なじめなかった。高校を卒業するとアルバイトをしながらアメリカやジャマイカなどを旅し、世界を見て歩いた。そして2003年、「お腹もいっぱいになったし、そろそろいいかな」と、いわきに戻ってきて、父の手伝いをするようになった。
父は、よく飲んだ。学生時代は、紛争の嵐のまっただなかで勉強している暇などなかった、という世代だけに、夜の11時を過ぎると、理屈っぽい荒くれの仲間たちが集まった。そこで酒盛りと議論が始まり、お開きは朝方になるのがざらだった。そうした父の行動が理解できず、どうしても好きになれなかった。
2007年だった。父・隆さんが体調を崩した。かなり進行が早い食道がんで、手遅れだった。最終的には、国立がんセンターに入院し、2年後の2009年11月14日、帰らぬ
人になった。
いざ亡くなってみると、ただの酔っぱらいだと思っていた父の存在が、いかに大きかったのかを知った。関係の深かった仲間や、かつてアルバイトをしていた人たちが、父の面
影を求めて次々と訪ねてきては、思い出話をしていった。生きていたころには見えなかった「前山隆」という1人の人間の姿が、くっきりと立ち上がってきた。それは、うれしいことだった。あらためて、父が残してくれたサブカルチャー的なものを、自分がいかに好きなのかも知ることができた。
3.11のあと、まちの様相が変わった。それは「じゃがいも」も例外ではなく、客が増えている。基本的には若者、家族連れだが、ホテルに泊まっている原発の作業員やゼネコン関係の社員の姿も目立つ。一見がさつで柄が良くないように見えるが、話してみると、いい人だったりする。そして、自身の妻子も東京で避難生活を送っている。
太郎さんは毎日、淡々と「じゃがいも」を開けている。さまざまなことがあることはあるが「いろんな人と出会えればいいかな」と思う。それも結局は、亡き父から教わった。
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