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「天平を知ったのは、昭和56年に発行された文芸誌『6号線』の特集でだった。手にとってページをめくると、白黒のグラビアが目に入った。切れ長の目を持つ詩人の顔は、憂いをたたえており、ただ静かだった。詩を読むとその思いはさらに深くなった。「突き抜けた美しさ」のようなものが作品全体を覆い、そこにはひとつの覚悟を持った人間の生き方があるように思えた。
以来、昭和27年春に42歳で死んだ、心平の弟のことが気になっていた」(『天平―ある詩人の生涯』・序章)
昭和56年、入社4年目を迎えた私は26歳。スポーツと福祉を担当する半人前の記者だった。もちろん「草野天平」という名前など聞いたこともなかった。ある日、会社で『6号線』の最新号が目に留まった。そこで天平を初めて知った。「天平」という名前にときめきを感じページをめくると、写
真があり、その顔に引きつけられた。
後年、天平のいとこで、交流が深かった草野悟郎さん(元平二中校長・故人)は「憂愁森厳をたたえたもの静かな顔」と表現したが、まさにその通
りの顔をしていた。決して深刻ぶっているわけで なく、ただ静かにその場所に存在していた。そして、土門拳が書いた「棺の上に飾る写
真」にも興味をそそられた。
その16年後、自分が天平が亡くなった42歳になったとき、思い切って梅乃夫人に電話をかけることになる。
当時、天平の人生を知る手がかりは、神山誠さんが中外日報に連載した「比叡山に死す―草野天平伝」ぐらいしかなかった。まず、天平の人生をトータルで知りたいと思い、「最初は梅乃さんへ」と思ったのだ。
梅乃さんはキリッとした声で「はい、ございます。では、コピーしてお送りしましょう」と言った。そして数日後、美しい文字の添え書きと一緒に100回以上連載された新聞のコピーが送られてくる。このとき「天平を書く」という思いが体の中でかたちになった。
梅乃さんに実際にお会いするのは、それから3年の歳月を要することになる。日々仕事に忙殺されていた報道部長というポジションから編集委員という好きなことを自由にできる立場に変わり、余裕が出た。さらに草野心平記念文学館が「草野天平展」を開くことになり、連載のきっかけができたのだった。
平成10年の秋、JR目黒駅前で初めて梅乃さんに会った。足を折ったあとで、杖をつきながら迎えに来てくれた。白髪交じりのショートカットと大きな瞳が印象的だった。
「天平とは何ものなのか」―梅乃さんの道案内を受けて、天平探しの旅がそろりそろりと始まった。
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