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もともと目性が悪いところにきて、眼球を司る神経や筋肉が緩んできたり硬直してきたりと、目のあたりに緊迫している状態が続いている。
数年まえなら何はさておき眼科に直行し、目薬の数種も処方してもらい目をいたわったものだが、このごろは眼球ばかりでなく右足首が痺れる、左肩が上がらない、腰のあたりに激痛が走る、等々。
身体の隅々までこのような状態が及んでくると、とりたてて目の芯が凝っていようが、その凝った目で用を足し、肘の動きが思わぬ方向へ動きだし、あたり一面に飯粒を散乱させようが、なんら恥じることなく、ああ美味しかったとその場を立ち去ることができる。
実際このような状態で日々の生活をし、それを怪しまないのも、身体全体が緩やかに老いているからだろう。確実に老いがわたしにやってきている。そしてそれは隠し通せないことであり、これはもう、人類の宿命である。
このような考えや思いをもつことをわたしは恥だと思っていた。それを文章にしてしまうことなぞなお恥ずかしいことだ。でもいまいるわたしは、昔からのわたしである。ずっと若いと思ってきたわたしである。
そして、わたしの船は老いていくのだ。
老いを考えはじめたことと、去年両親をひとときに亡くしこととは、無縁ではないだろう。
先だっても伯父を亡くした。もうわたしの身近で老いてゆく人はいなくなった。こんどはわたしが老いていく番だ。
ずっと若かったころ、早く老人になりたいものだと思っていた。老人になればいまよりずっと鈍くなるはずだ。おおきな傷もカスリ傷程度で収まり、胸が軋むときだって、すぐじぶんを取り戻せる。
そう思っていた。
でも、おお間違いだ。
痛いところは痛いままにあり、ちょつとした傷の治りも遅い、薄れゆくものは薄れゆくままいつまでもこころの片隅に住みつき、わたしを哀しませる。
若いころなら泥酔し破り捨てることができたものも、いまでは名残おしくて、いつまでもしおりのようにこころの片隅にはさみこんで生きている。
時が過ぎるのではない人が過ぎていくのだと、書いた詩人がいたが、時も人も過ぎない、ただわたしが過ぎてゆくだけである。
さらば、夭折! |
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(詩人) |
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