私は高校の国語の教師だったんです。相馬高校に勤めていたときに「相高相中80年」という80年史の編集に携わりました。1986年、いまから11年前のことです。
ある日、鈴木安蔵の弟子で安蔵研究の第一人者である金子勝さん(憲法学者・立正大教授)から「鈴木安蔵先生の中学時代の資料はありませんか」という問い合わせが来たんです。そこで学友会雑誌のバックナンバーをめくり、安蔵が書いた「我が家」など何編かの文章を探しました。当時は成績順にクラス分けがされていましてね、安蔵は1年終了時、学年でトップの成績でした。
小高という町には反権力的な人たちがたくさん出ています。俳句が盛んな土地柄ですが、その中に大曲駒村(1882〜1943)という人がいます。社会的には認められない句をつくり、戦争に入るころ、発禁処分を受けています。小高にかかわりのある文学者・埴谷雄高や島尾敏雄なども、一種の反権力の人たちでしょう。
その理由の1つに、明治政府ができる段階で賊軍だった、というのがあります。明治政府に対する反発です。そして、自由民権運動に対する共感が生まれます。
さらに、キリスト教の影響です。小高教会の牧師として赴任した杉山元治郎が布教活動だけではなく、農村の向上や改良にはどうしたらいいかを教え、農民運動や政治活動へとつながっていきます。
それらが積み重なって小高には自由な雰囲気が育ち、経済力のある人たちが盛んに知識を求め、本を読むようになりました。そうした土地の空気が、さまざまな人物を生む土壌になったのでしょう。
埴谷雄高が小高を「隕石が落下して特殊な放射能を受けたような地域」というようなニュアンスのことを言っています。熱いエネルギーを持っている、なぜか不思議な人たちが出ている、ということなのでしょう。なにしろ、埴谷は、『死霊』に50年かけ、島尾敏雄は『死の棘』に27年かけたんですからね。鈴木安蔵の思想というのも、そうした地域で育まれたんだと思います。
鈴木安蔵については、今回の映画「日本の青空」であらためて知った、という感じだと思います。ほとんどの人が存在そのものを知りませんでした。だから、小高の人たちは安蔵の存在を知ってびっくりしたと思いますよ。
(談)
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