日々の新聞

565号
2026年9月15日

            

    みんなが大切にしている在り処

 「もう12年になるのか」と思う。2014年(平成26)5月31日に85歳で亡くなった猪狩咲子さん。いまでも穏やかな笑顔が忘れられない。福島労災病院の副院長として後輩医師たちを育て、退職してから、平の大工町に小さなクリニックを持った。敷居を低くし、体のことなら何でも相談できるオアシスのような診療所。それは「咲子先生」の生き甲斐だった。

 咲子さんとは「いわき市女性プラン懇話会」の委員同士だった。労災病院の改革の旗手としてさまざまな軋轢と闘ってきた咲子さんは、決して行政の筋書き通りにはならなかった。「それはおかしいんじゃないですか」と疑問を呈し、隣のわたしに同意を求めた。「フレキシブルに考えてください。既定路線はだめです」が口癖で、やんわりと待ったをかけた。咲子さんの人生はそんなふうに、向かい風のなかを突っ切ることが多かった。
 何年か前に、縁者の方から「手元に咲子先生が書き残したものがあるんです。いつか何かの役に立てて下さい」と手渡された。それは自らの人生であり、思いだった。それを読んで咲子さんが生きた時代や医師としての信条を知ることができた。咲子さんはいつも、臓器ではなく人間を診て、こころを大事にする医者だった。

 咲子さんに「空襲」というエッセイがある。安積高女時代に学徒動員で郡山の保土谷化学の工場で働き、B29の空襲で多くの仲間が犠牲になった。そのあと、学校から許可をもらって、草野の泉崎にある祖父の家の手伝いをした。農業をしていた祖父は厳しく、朝四時から起こされて草刈りや田おこしをさせられた。そうしたなかで、小川江筋を乱舞する何千もの蛍を見る。そのときの光景を「その光っては消える美しさは筆舌に尽くし難かった」と書いている。多感な年ごろに見た、悲惨な爆撃と、この世のものとは思えない美しい蛍。その対照的な2つの光景は咲子さんの身体に刻まれていたのだと思う。

 9月8日の昼下がり、咲子さんが蛍を見た泉崎(いわき市平泉崎)の家を訪ねた。いまはだれも住んでいないが、庭には咲子さんの祖父、金之助さんの遺訓「仕事より掃除」が刻まれた大きな石碑があり、裏には関係者の1人として「猪狩咲子」の名前も刻まれている。
 屋敷は木造でどっしりしていて、周りには大木が生い茂っている。周辺が新興の住宅団地なだけに、存在感があった。その一族には、咲子さんの父・公三さんを筆頭に、真砂不動産を興した猪狩四郎さん、歴史研究家として知られる佐藤孝徳さんの母・福貴さんなどが名前を連ねていて、それぞれの風貌がよみがえってきた。
 この家はみんなが大切にしている在り処なのだろう。

 特集 遺された原稿用紙 咲子先生の人生

 


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