日々の新聞

445号
2021年9月15日

画・黒田 征太郎

  

本の表紙だけ変えても中身が変わらなければ意味がない

 悩ましい市長選が終わった。市民は「継続は力」と2期8年の実績を訴えた現職の清水敏男さん(58)に「NO!」を突きつけ、首長としてはまったく未知数の元官僚、内田広之さん(49)を選んだ。2位に17627票の差をつける圧勝で、この結果は、清水さんに対する拒否反応がいかに大きかったかを物語っている。
 何が悩ましかったのか。一番は「この人に市政を託したい」という候補者が見当たらなかったことだと思う。取材を通して清水離れは実感できたが、「だれを選ぶべきか迷っている」という声をかなり聞いた。さまざまな角度から検討してみるとプラス、マイナスがあって決めかねてしまう。最終的には「清水さんに一番勝てそうな人」という判断から雪崩を打つように内田さんに票が流れ、勝ち馬に乗るかたちになった。しかし終わってみると、「はたしてこれで良かったのだろうか」という思いに苛まれた。いわきのまちを、複雑な思いが漂流している。

 複雑な思いとは、「本の表紙を変えれば変わるのだろうか」ということではないか。菅首相が自民党の総裁選への出馬を断念し、政局が流動化した。総裁選に名乗りを上げた候補者たちは自らの政治信条や主義を封印し、より多くの後ろ盾を求めるために右顧左眄している。自民党の議員たちも「衆議院選で勝てる人」という視点で動いている。そこに国民の姿はない。
 立憲民主党の枝野幸男代表はそうした動きを揶揄するように「総裁が変わっても本の表紙が変わるだけで中身は同じ」と言った。実はこの言葉、41年前の1980年(昭和55)、大平正芳首相が急逝したあとに内閣総理大臣臨時代理を務めた伊東正義さん(衆議院議員)によって有名になった。
 祖父が会津藩士で一徹な「会津っぽ」として知られた伊東さんは、農林事務次官から政治家に転じ、副総理や外務大臣、自民党政治改革本部長などを努めた。何回か「総理に」と取り沙汰されたが、「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなければだめだ」と耳を貸そうとしなかった。そして1994年(平成6)、肺炎のため80歳で亡くなった。
 葬儀では官房長官などを務めた後藤田正晴さんが弔辞を読み、「あなたは愚直なまでの潔癖漢でした。政治の世界でこうした姿勢を貫き通したことに、私はすがすがしさ、美しさすら覚えます。党内にはそういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそが今の政治に最も大切なことだと思います」と讃えた。
 愚直なまでの潔癖さを貫いたもの、それは「ならぬものはならぬ」という会津人の精神であり、気骨だったと思う。それだけに、数の論理を優先し「長いものに巻かれろ」とばかり、簡単に政治家としての魂を懐にしまい込んでしまういまの風潮は、実に情けない。
 
 さて、いわきの内田広之新市長。現時点では海のものとも山のものともわからない。ただ、「つねに市民目線を持ち、一度決めたことは理不尽な横やりがあっても揺るがない信念のある首長になってほしい」と願うばかりだ。

 南相馬市の詩人、若松丈太郎さんが4月に亡くなってから、もっと若松さんのことを知りたいと思うようになった。静かさのなかにある怒りの源泉はなんなのか。何回かインタビューをしているのだが、いつも穏やかで、本当の心の内を明かすことはなかった。それもあって、書いたものを少しずつ紐解き、「人間・若松丈太郎」に近づく努力をしている。
 
 初めて会ったのはいまから14年前の2007年(平成19)5月、南相馬市小高区出身の憲法学者・鈴木安蔵の取材がきっかけだった。若松さんは小高農工に勤務していたこと、町の雰囲気が自分の生まれ育った岩手県江刺郡岩谷堂町六日町(現在の奥州市)とよく似ていることもあって、小高という土地を愛した。
 若松さんのふるさとは平安時代、大和政権の王化に染はなかった蝦夷の族長、阿弖流為が活動していた胆沢あたりで、信念を持って権力と対峙した人たちが多く出ている小高とは、共通性があった。
 小高のそうした精神風土について若松さんは「明治政府に対する反発から自由民権運動への共感が生まれた。さらに小高教会の牧師が農民運動や政治活動へと導き、それらが積み重なって自由が育った。そんな空気が、さまざまな人物を生む土壌になったのではないか。鈴木安蔵の思想も、そうした地域で育まれたのだと思う」と説明した。
 10歳の夏に戦争が終わり、教科書の墨塗りを体験した若松さんは中学生のときに金子光晴の「おっとせい」という詩のなかの「ただひとり、反対をむいてすましているやつ。おいら。」というフレーズに共感し、思い通りの生き方をめざすようになる。それは「だめなものはだめ」ということであり、理不尽なものに対してはしなやかに抗うということだった。あったことをなかったことにしようとする動きに対しては、ことばと行動で「NO!」を貫いた。
 東北電力が自宅から15km先に「浪江・小高原発」を建設しようとしたときには反対集会や勉強会に顔を出し、チェルノブイリ原発を視察してチェルノブイリと福島県浜通りを重ね合わせた。そして事故は現実のものになり、自らも避難せざるを得なくなった。若松さんの詩の根幹にあるのは核廃絶であり、憲法9条を守って2度と戦争を起こさないことだった。その姿勢は決して揺らがず、現実を凝視し、想像力を持つことがいかに大事かを訴え続けた。

 「わたしたちは、漂流し漂着する時代とそこに生きるわたしたち自身を、詩を書くことによって拾いあげようとしている」
 寡黙だった若松さんは、詩で自らの思いをかたちにした。それは魂の記録であり、真実の証拠だった。

 特集 LIFE 染織家 寺川真弓さん