紙面を読んで From Ombudsman | 425号 |
藁谷 和子
エィミ・ツジモト
以前に日々の新聞社を訪れた時のこと。長い論議の最後に「トリチウム」について聞かれた。このときのわたくしは、トリチウム汚染水に関してあまりにも言いたいことが多く、ただ「海に流すのは反対だ」とだけ短く答えた覚えがある。
奇しくも前号の1面に「積極的な発言はしなくても、トリチウムを含む汚染水を海に流すべきではないということを、多くの人たちが思っている」という記事が載り、それに着目した。言うまでもなく、日本の人々はこの事態に関してさらなる視野を広げ、ゼロの地点に立ち返って考える必要性がある。世界の良識者たちはそれを求めているのだ。
人間が引き起こした原発事故。多くの人々の命を蝕み、今も故郷に帰れない人たちがたくさんいる。しかも廃炉作業の収束さえめどが立たない中で、放射性汚染水を海に流さなければない理由は「敷地内にタンク貯蔵のスペースがなくなってきた」という、東電の一方的な都合である。しかも、さらなる対策の試みをつなぐことがないまま、現在に至っている。
アメリカの専門家によると、さる石油産業が開発した技術を導入すれば、山から流れ込む地下水を完璧に遮断できる実例があるという。それなのに政府や東電は「海に流すのが手っ取り早い」とばかり、自分たちが有利になる手段を優先して選択するだけだ。これを英語では「Out of Sight Out of Mind」(人は自分の目に見えない限りは考えなくてもすむ)と位置付ける。
漁業をいとなむ人々にとって、この汚染水放流は死活問題と言える。しかも、綺麗な海から揚がった魚を安心して家庭の食卓に上らせたいとの思いを抱いて海に出ているはずである。そして国民は、その魚を口にしている。それでも東電は、「トリチウムで汚染された水を薄めて流せば害にはならない」との主張を繰り返す。そうした身勝手な言い分を、断じて許してはならない。海底にトリチウムが沈殿し小魚や海藻を汚染し、大きな魚へと連鎖する。やがて、それらが自分たちの食卓に上り、体内被曝を引き起こす。食物連鎖の危険性がここにある。これは決してオーバーなことではない。
こうした被害はこれまでに幾多も報告されている。一例として、九州・玄海原発周辺の住民たちは、従来の平均以上の白血病発症率が高く、子どものがんが増加している事実。だからこそ、事故から10年を経つつある今、汚染水の海への流出は、日本国民に逼迫した事態であるという認識を、あの日の原点に戻りあらためて求められているのだ。朝鮮半島においても日本政府の決断に、憂慮していることは言うまでもない。
海に囲まれた母国は、豊穣なる海の恵みによって太古の昔から人々の生活は営まれてきた。その母なる海を、放射能で汚染するなど「恩を仇で返す」といったレベルで済まされるものではないはずである。
(京都在住)
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