紙面を読んで From Ombudsman | 427号 |

エィミ・ツジモト
新聞を読むときには、紙面の「下段」(新着書や宣伝広告)から目を通す癖が昔からある。隔週に送られてくる「日々の新聞」だってそうだ。今回は「松井秀簡― 非戦をつらぬいた泉藩士」 の展示広告に思わず目が行った。
わたくしごとで恐縮であるが、曽祖父は明治元年に開かれたはずの新たな扉に、新天地アメリカに向かった。アメリカの移民史においては「元年者」と位置付けられる、最年少の日本人移民である。彼は、新しく生まれかわった新生日本と諸外国のブリッジを築き上げるのだ、という強い決意のものに渡米したのだが、大政奉還(1867年)をしたはずの旧幕府が新政府奪還の狼煙を上げ、戊辰戦争(1868年)を引き起こすなど、夢にも思わなかったと思う。おそらく松井秀簡も、そこまでの考えに至っていなかったのではないだろうか。
松井秀簡の切腹事件は、そうしたあの時代の「逆流」に対する象徴的な行動ではないかと察する。と同時に、この逆流がいかに新生日本の未来を危ういものにしてしまったかということは、明治元年を振り返っての思いである。
展示内容によると、自害の動機は必ずしも定かでない、という。尊王を主張して切腹したとされていること、国内外の情勢をよく理解し、武士同士の内戦を無益なものと考えていたと思われること、友人の回顧でも「切腹」は藩当局が旧幕府軍に強要されて軍資金を領民から徴収しようとしたこと、への抗議だったのでは、とある。その動機が推測であるならば、わたくしも曽祖父が気概に燃えて母国日本をあとにしたあの時代に思いを馳せつつ、明治前後の内外事情に重ねながら、つい推測してみたくなった。
一つに、秀簡は幕末期の日本と外国の関係を把握し、「国内外の情勢に詳しかった」ことは確かであろう。なぜなら、この時期日本は、アメリカと結んだ「不平等条約」(1854年)をきっかけに、すでに日本の内政にも関与している西洋列強(アメリカ・イギリス・フランス・ロシアなど)の干渉もあり、植民地化の危険性を強く感じていたと思うからだ。
「奥羽越列藩同盟」に組みした藩に対し、松井秀簡の胸中はざわついたはずだ。不戦論を唱えたと言われるが、その胸中には新しい国の夜明けを前に、もはや武士同士の戦いは殺戮にすぎず、それによって得するは先の列強による権益の拡大、と考えていたのではないか。だからこそ武士同士の内戦を無益なものと考えていた、と考察したい。
同時に、泉藩領民への愛着、そして新生日本に対する愛国心という点では、先見の明を持つ郡奉行であった。だからこそ、藩主や領民への新たな目覚めを、自らの死を賭して実行したのではなかったか、とつい思いを馳せてしまう。
非戦の藩士である以上に近代国家形成に向かう途上での、尊い「犠牲者」の一人なのだ。決してそれまでの武士道における武士の一分として名誉を守るための自刃でなかったことは確かである。
(京都在住)
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