紙面を読んで From Ombudsman | 441号 |

嶋崎 剛
「日々の新聞」の6月30日号がポストに入っていた。店を始めてから届くのが楽しみになっている。店にはフリーペーパーなども置いてあるが多くの人が必ず「日々の新聞」を手に取る。中には持って帰ろうとする人もいたりして丁重にお断りしている。小学校からの同級生には店に誘うのに使わせてもらっている。「日々の新聞、入ったから明日来ない?」といった調子で。
2つ折りにされた紙面の下部の文字が、手にした時に目に入った。「放出だろう」、いつになく強い調子だなと感じた。開いてみると「争点は海洋放出だろう」とあり、意味が繋がった。最近、随分遠くまで来たなと思うことがあり、自分の道は常にマイナーだったなと述懐している。そしてこのところ「共感」ということをよく考えるようになった。どうしたら人の「共感」を得ることができるのか。「共感」を与えるものが必ずしも真実であるとは限らないと知りつつも。
SNSのフェイスブックを始めて8年位になる。当初は自分の作品を聴いてもらうのに始めたのだが、いつの間にか原発事故関連の情報収集になっていった。自分の友達数は200人位で総じて「いいね」は少ない。しかし最近は店の案内を出すようになって「いいね」が安定的に少し増えた。そこに時事ネタや意見広告的なものを投稿すると途端に「いいね」はガクンと落ちる。果たしてこの「いいね」とは「共感」なのだろうか。
SNSにとどまらず、「共感」の対象は数限りない。政治家への選挙への1票、商品の価値やヒットソングや芸術への嗜好、そしてメディアは当然の如くそれで成り立っている。「共感集団」VS「共感集団」が血を流してきた歴史があり、それは今も続いている。
歴史学者のハラリによれば、サピエンスが他の生き物から抜き出てこれほどまでの隆盛をみたのは、虚構を作り上げる能力とそれを共有(共感)しあうことにより、技術を手にしたことだという。ここでふと「立場主義」という言葉が頭をよぎると同時に「共」という字がマスをイメージしがちだが「共感」の基本は一対一にあることにも気付く。もう字数がない、いきなり結びへ向かおう。
今自分のマイナーな視点が「共感」という言葉から想起させられるのは「損得と忖度」、そしてそれを引き出させる「力関係」である。「争点は海洋放出だろう」。この第一面にはどんな力への「忖度も損得」もない。これを読んで自分は全面的に「共感」した。まさに「イチゲキ文」であった。これは非常に勇気のいることだ。「日々の新聞」にも広告主がいるからだ。そしてそれぞれが「立場主義」から逃れられない事情もあるからだ。大手メディア新聞各社の劣化ぶりはどうだろう。オリンピックのステイクホルダーになっているせいなのか報道の殆どが「大本営発表」をそのまま伝えているだけ(報道の自由度ランクで日本が世界の下位の方にあるのを知り愕然とする)。
先の同級生が店で「日々の新聞」を読みながら「最近は原発がらみが多いね」と一言いった。彼は「日々の新聞」のどこが好きで「共感」しているのだろう。自分と少し違うところにあるのは間違いない。自分の紙面での一番の楽しみは「粥塚伯正余話」であるが今回は1面から読み始めた。母の実家のある紺屋町が出てくる記事も楽しかった。
「共感」という言葉を軸に紙面について書こうとしたが「共感」という言葉を捏造した嫌疑で天国にいる粥塚さんに裁かれるかもしれない。きっと笑っているだろう。
(「備中屋本家斎菊」主宰)
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