紙面を読んで From Ombudsman | 475号 |

荒川 秀樹
中学を卒業して街を出るまで九州と北海道の炭鉱町で育った。10月31日号の巻頭で朝倉摂に「ズリ山」なる作品があることを知った。突然の懐かしい響き。九州では「ボタ山」、北海道では「ズリ山」という呼び名で親しんだ。九州の温かい穏やかな山並み、北海道の寒々とした急峻な山並みにつられてしまったような名称は、言い得て妙。このヤマの名前は南から北のどの辺りで変換されるのだろうか。夕景に遠く眺めた「ボタ山」。裾野が炭住の近くまで迫っていた「ズリ山」。私のヤマはどちらも自然の山々に染まず孤高に聳えていた。
日本の冬に団欒を生み、蒸気機関に異次元のダイナミズムを生み出した石炭は、国策のなかで黒いダイヤとしてもてはやされた。そのころ九州にいて、私の隣の小学校は日本一の生徒数を誇っていた。その興隆のシンボルが「ボタ山」であり「ズリ山」の雄姿であった。それから石炭は掌を返したような時代の洗礼を受けて、かそけき一途を辿る。
「さぞやお月さん煙たかろ、サノヨイヨイ」。祭りに興じた炭鉱の街に人は集まり散じ、やがて街は姿を消していく。時代の終焉だった。それからも主なき全国の「ボタ山」「ズリ山」は祭りの時を語り継ごうとするかのように、風雨の中でその威容を晒し続けた。やがてシンボルはその役割を終え、「墓標」へと変容して行く。
炭鉱がつくったマチもヤマも全て消え、街の記憶は「うたかた」となる摂理の中で、ひとつの時代が歴史に丸ごと飲み込まれる時に遭遇した。機会があれば朝倉摂の「ズリ山」を見て、「炭鉱での日々の記憶のよすがとしたい」と思っている。
(劇団昴代表)
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