紙面を読んで From Ombudsman | 500号 |
藍原 寛子
原発事故の問題が何も解決していないのに、人間はなぜ再稼働したがるのか。考えるたびに震災直後の波立海岸に「原発 どこかえ(へ)もってけ」などと書かれた畳が並んでいたことを思い出す。初報の195号、新妻完之さんを探し当てた385号、続報の497号と、時の経過とともに紙面も「あの日」と「今」を追い続ける。
原発をどこにも持っていけない今、私たちは何をすべきか。新妻さんがしたことは怒りを記した畳を掲げることだった。ならば取材者も、多くの人々が提起した問題や言葉や怒り、苦しみ、その思いを現代の文字に記すだけだ。
それはまるで半永久的地下埋設の高レベル核廃棄物処分場、フィンランドの「オンカロ」で、未来人類に核の危険物があることを知らせる「ピクトグラム(絵文字)」を石に刻み残す作業に似ている。そう、取材者は報道を通じて、人々の記憶の回路の奥深くまで、原発の危険性とその被害を刻みつけるのだ。
312号(2016年2月29日)は、「これからも私たちは伝え続けていきたい」「(取材に)終わりはない」と記す。原発被災を語る人がいる限り、書き続ける人が必要だ。「日々の新聞」は、被災地の新聞社としてその役割を担う、と高らかに宣言したのだ。
2024年下半期に本格利用開始される予定のオンカロ。日本の原子力ムラの視察も相次ぐが、視察した者の「まねしよう」との下心はあっさりと覆され、「核の処分場は自国では無理」という根本問題に直面させられる。「オンカロのパラドックス(逆説)」だ。
福島の原発震災報道は福島の人々の被害から情報を提供し、問題を提起し、根本問題に直面させ、誤った道を二度と歩ませないための「オンカロのピクトグラム」や「オンカロのパラドックス」でありたい。たとえそこで、人間に内包化されたぬぐいようのない矛盾や欲望や狂気や醜さを可視化することがあったとしても、だ。
(福島在住ジャーナリスト)
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