紙面を読んで From Ombudsman | 503号 |
矢吹 道徳
昨年逝去された元運輸省海上安全局長の戸田邦司さんが、「日々の新聞」に連載されたコラムを記者のお2人が編集し、遺稿集『Old Salty』という本になった。そのなかに小型原子炉設置の反対運動に関わった体験を記されている。私も学生時代、小型原子炉設置の反対運動にかかわったことがある。
一九六七年の年末、東北大の工学部が仙台市の片平から青葉山に移転した。そして工学部の原子炉工学科に未臨界実験装置開設の概算要求が、文部省に提出されたことが判明した。未臨界実験装置、言い換えれば小型原子炉である。仙台郊外とはいえ、教養部(4000人)、工学部(1400人)、理学部、医学部から分離した薬学部、全学ストライキの反対運動を退けて東北大学から分離独立された宮城教育大が近くにあり、昼間人口は1万人を超える。この文教地区に放射線管理地域を設定する小型原子炉を設置してよいのか。その可否を巡る議論で学内は沸騰した。
当時理学部助手だった故竹内峯氏を中心に、学内共闘組織「東北大学平和と民主主義を守る連絡会」が運動を担うことになった。工学部自治会と隣接する最大の人員を擁する教養部自治会が、運動の主力となった。当時教養部の学生運動指導部の一員であった私は、寒風吹き荒ぶ冬の青葉山に毎日200人の学生を動員、工学部教授会に撤回を求めて構内デモと抗議活動を行った。その際、核物理の専門家であった竹内助手から原子力の基礎知識と原子力研究の三原則「自主・民主・公開」について学んだ。
竹内助手は「万年助手」と言われ、将来の教授昇任が危ぶまれていたが、予想を覆して教授になった。そこが17年助手に据え置かれた安斎育郎氏と、23年間助手という冷遇を受けた故宇井純氏の在学した東大と、旧制高校以外からの入学や女子学生の入学を認めるなど開明的な校風の東北大の大きな違いであると思われる。
しかし未臨界実験装置は設置された。翌年、希望に胸を膨らませて入学してきたのが、女川原発建設反対運動に参加して原子力に失望と絶望を感じ、京都大熊取六人衆の一人となる小出裕章助教である。
私は父が病に倒れ、研究者への道を断念して帰郷した。そこで高校・大学同期の吉田新君(医師)の実兄で詩人の故吉田信氏(平商教諭)、その同僚の伊東達也氏、宝鏡寺(楢葉町)住職の早川篤雄氏など、福島第二原子力発電所の設置に反対する市民運動と取り組んでいた人たちとの出会いがあった。そして2011年3月11日、東日本大震災と原子炉の制御不能による原発事故との複合災害、原発震災が発生した。
それを受けて伊東、早川両氏を中心に「完全賠償をさせる会」が組織され、早川氏が団長の「避難者訴訟」、伊東氏が代表の「いわき市民訴訟」の原告団が結成され、政策形成訴訟として損害賠償を求めて提訴した。
「日々の新聞」は、その裁判を巡る状況や専門家を迎えての講演会などを丁寧に取材し、報道した。メディアの良心とも言えるその報道姿勢には、深い敬意を表したいと思う。権力を監視し、批判し、同調圧力を跳ね返して多様な言論を擁護する。そこに「日々の新聞」の真骨頂があるのではないか。その姿勢に期待したい。
(浜通り医療生活協同組合顧問)
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